角牟礼城
つのむれじょう

(大分県玖珠郡玖珠町)
最終更新日:2016.3.18

地図

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<2016.3.18記>
久留島陣屋をあとにして、その背後にある山へと向かう車道をひたすら登ること10分ほど。あたりが薄暗くなってくる中で、車道が尽きたと思ったら、そこはもう角牟礼城の三の丸跡でした。石垣に囲まれた曲輪がそのまんま未舗装の駐車場になっているというおおらかさ(笑)。
三の丸の石垣は発掘後に復元整備されたもののようですが、二の丸から上の石垣は、廃城当時のそのままな感じ。破城されたはずなのに、少なくとも二の丸の石垣には手を付けた形跡がありません。さては久留島氏、確信犯で城を壊さなかったな、と。
日も沈み、いよいよ足元がおぼつかなくなる中、江戸から遠く離れたこんな場所で、密かに牙を磨いていた(と思われる)久留島氏のしたたかさに少々舌を巻きながら、次のお城に行くことを諦めてこの日の宿泊地へと車を進めたのでありました。
Data
ランク 大分県7位
石垣
創築:弘安年間(1278〜1288)年、森朝通、改築:文禄3(1594)年、毛利高政
森氏、毛利氏
豊後森の地は古くから交通の要衝だったようで、古くは元寇時代の弘安年間、この地を治めた森朝通なる人物が城郭を築いたとかなんとかいう伝承があるようです。ただ歴史上確実にその存在が知れるのは、およそ300年後の応仁・文明の頃まで待たなければなりません。
角牟礼城が現在残る織豊系城郭の体裁を整えるのは、豊臣秀吉による九州遠征の後、豊後に秀吉の臣・毛利高政が入ってからのことになります。高政は日田にも日隈城を作りますが、この森の地でも角牟礼城を派手に修築しています。今に残る石垣はこの時のものと推察され、その意味で角牟礼城はまさしく織豊系城郭の典型例ということになります。
毛利高政は関ヶ原の戦いの後、同じ豊後の佐伯に移され、森の地には村上水軍の一派・来島水軍の将・来島長親が封じられます。長親は城を持てない城主格大名だったために角牟礼城を廃し、角牟礼城の麓に新たに久留島陣屋を築いて拠点としますが、壊されたはずの角牟礼城はかなりの部分の石垣をそのまま残しています。どう見ても甘々の破城で、久留島氏はいつか城主となって、角牟礼城を再利用しようと企んでいたのではないかと睨んでいます。
お城は角牟礼山の山頂を主郭とし、城下町のある南側に段々に曲輪を築いています。搦手門と伝わる水の手曲輪からの石垣が最も見事で、山麓から見えそうな場所に好んで石垣を使っていますので、石垣は防御半分、威圧半分の目的だったことでしょう。相応に比高のあるお城ですが、車で楽に登ることができますので、久留島陣屋とセットでぜひ訪れて頂きたいお城です。





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