月隈城
つきくまじょう

(大分県日田市)
最終更新日:2016.3.7

地図

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<2011.9.11記>
2011年の秋、このお城から「門跡の石垣が出た」との報道がなされました。本丸搦手口に相当する部分に門があり、本丸から迎撃できる態勢にあったことがわかったという趣旨で、報道から察するにただの出入り口と思われていた場所から「枡形」のような、しっかりした城郭構造を検出した、ということなのでしょう。「日田天領水」で知られる日田市は、歴史的には長く「天領(幕府領)」として、特定の大名が配されることがほとんどなかった地域であり、永山城も一般には「日田陣屋」という、代官陣屋としての扱いがなされています。そんな中で「おらが町にも立派な城があったんだ」ということを証明すべく、今回の発掘に至ったのではないかと勝手に推察しております。「日隈」「月隈」という、美しい一対の名を抱くお城のひとつとして、(「月隈」という名称がたとえ俗説であったとしても)永山城自体は立派な城郭であったと信じている私にとって、今回の報道は「それみろ」という気持ちです。日田市には、やっぱり立派なお城がふたつあるんです。

<2016.3.7>
日田市まで足を伸ばし、日隈城と月隈城をまとめて見る機会に恵まれましたが、そうなってみるとやっぱりこのお城は「永山城」というより「月隈城」とした方がすっきりするような気がしましたので、本日を境に「月隈城」へと表記を改めました。
月隈城のある月隈山に登る道には大小さまざまな横穴が空いています。古代の墳墓のようですが、お城と墳墓が一緒になるとかなり独特の雰囲気が醸し出されて、一人で登るのもちょっとためらわれます。が、この時は法事を終えたばかりと思しき大家族がわいわい言いながら月隈城へと登っていたので、寂しいとか不気味だとかいう雰囲気とはちょっと違う感じになり、助かりました。
山上の曲輪の入り口には、5年ほど前に上の文章で書いた虎口跡の石垣がぽっかり。なるほど確かに幅広の通路らしき石垣が検出されていました。主郭の周辺には丸い川原石をそのまま積み上げたようなかわいらしい石垣がそこここに残存していて、これまた独特の雰囲気です。山下の切石積みの石垣とのコントラストも特徴的で、端から端までやたらと強烈な印象を残すお城でした。
Data
ランク -
石垣、堀
創築:慶長6(1601)年、小川光氏、改築:元和2(1616)年、石川忠総
小川氏、石川氏、松平(越前)氏、(日田藩、70000石)
城主の欄には、ここに大名として入城した各氏を記載していますが、越前松平氏の直矩が姫路から幼少を理由に移封され、いろいろあって貞享3(1686)年に白河へと移封した後、この地に大名が入ることはありませんでした。いわゆる「日田天領」としての名称の方が、名水「日田天領水」の名とともに、全国に知られています。
永山城は、関ヶ原の戦で西軍から東軍に寝返った小川祐忠の子である小川光氏が、光氏の母方である一柳氏の奔走によって大名に復帰し、日田の地を与えられたことによって築かれました。お城は早い段階で陣屋として再構築されたためか、お城としての縄張りなどが不明のままです。2009年頃から日田市が発掘を繰り返しており、本丸石垣など、徐々にその姿が明らかになりつつあります。ちなみに山麓に存在する石垣と水堀は、明治になって日田県庁が置かれた際に、新たに築かれたもの、とのことです。





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