富来城 とみくじょう |
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(大分県国東市) 最終更新日:2016.3.21 ※富来城フォトギャラリーはこちら※ |
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<2018.3.21記> 安岐城まで来たのだからと、安岐城とおなじく官兵衛さんに鎧袖一触された富来城にも行ってみるか、ということで、回り道になることを覚悟の上で国道213号線を更に北上しました。これが長い(笑)。安岐城から富来城までは直線距離で15kmほどなのですが、何しろ一般国道なのでどうやっても30分以上はかかります。次の目的地である杵築城に行くためには元来た道を180度引き返すしかないので、片道30分のロスはまるまる1時間のロスに繋がるわけで・・・ なとど考えているうちに、漸く富来城のある丘へとたどり着きました。富来城全体が段丘状の丘の上にあり、お城の奥には小さな商店街があります。商店街の中にある小さなスーパーの前で荷卸しをするトラックの存在が気になっているうちに、富来城の駐車場を通過してしまい、狭い道をえっちらおっちらUターンする羽目に。そんないらぬ苦労をしながら、やっとのことで富来城の見学開始です。 本丸があった場所は小さな公園になっていて、手作りの案内板が結構しつこく(笑)つけられています。官兵衛さん関係の案内板は、大河ドラマブームに乗っかって新たに付け加えられたものなのでしょう。 公園の南側は段丘斜面になっていて、そこには石垣が用いられています。決して見やすい位置とは言えませんし、蜘蛛の巣とやぶ蚊の攻撃を受けることになりますが、自然石を積み上げた石垣は確かに当時のものなのでしょう。公園の向かい側にある、コンクリートで固められた井戸とともに、富来城の存在を現代に伝える数少ない遺構です。 でも、このお城の一番の見どころは、もしかしたら微笑ましくもどこかでちぐはぐな感の否めない数多くの案内板たちなのかもしれません。地元の方々もここにお城があったことを分かっていながら、どうアピールしたらよいのかわからず戸惑っているような、そんな印象が強く残りました。 |
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石垣 | |
創築:弘長元(1261)年、富来忠文、改築:文禄2(1593)年、垣見一直 | |
富来氏、垣見氏 | |
創築は鎌倉時代の弘長元(1261)年とも、正安元(1299)年とも言われます。年代が二つに分かれることの根拠まで確認していないのですが、二つの史料があるのか、はたまた史料の年号を示す字が読めなかったのかのどちらかなのでしょう。富来を本貫の地とする富来氏が、大友氏の有力被官として一貫して守り続けた場所です。富来氏は19代を数えますが、19代目の富来鎮久は文禄の役で戦死します。大友氏と言えば文禄の役での働き(勝手な退却)が豊臣秀吉の逆鱗に触れ、豊後一国を取り上げられた大名ですが、文禄の役では大友氏なりに相応の被害を出しているんですよね。当然と言えば当然ですが。 大友氏が去った後の富来には、秀吉の臣・垣見一直が2万石で入ります。近隣の安岐城に熊谷直盛が入ったのと同じ流れです。で、この二人は関ヶ原の戦いでも行動を共にしており、共に大垣城に入って共に城内で殺害されてしまいます。大垣城内には「九州の小大名」でくくられた諸大名が詰めることになったのですが、同じ小大名でも結果的に石田方を裏切ったのが秋月氏など九州土着の大名たちで、裏切られたのが垣見氏など秀吉股肱の臣たちですから、そもそもひとつのカテゴリーでくくろうとした石田三成の発想に無理があったような気もします。 主を失った富来城は、これまた安岐城同様に黒田官兵衛の説得を受け、開城することとなります。そのまま廃城となる点も安岐城と同様です。富来城の遺構は安岐城よりもかなり薄く、本丸跡と伝わる平地(公園)と、公園足下の崖にある石垣くらいしか、お城らしさを伝えるものは残っていません。 |