大葉沢城
おおばざわじょう



所在地:新潟県村上市大場沢
最終更新日:2022.12.10

   
<2015.1.29記>
ある日、親しい城仲間から一枚の写真とともに、「この城、面白すぎ!頭おかしい!」みたいなメールが飛んできました。
そのお城は、お城の周囲に「これでもか」というくらいに畝状の溝に囲まれていたのです。
そんないきさつもあり、友曰く「狂気」と言える畝状竪堀群を一度はこの目で見てみなければと思っていましたが、メールが来てから1年余を経て実際に現地を訪れる機会に巡り合いました。
現地を見た感想は・・・うん。狂ってるかも(笑)。
対して傾斜もない土地にうねうねと連なる、畝。もはや目的すらも判別できない、溝の連なり。全国に何万とあるお城の中でも、ひときわ異彩を放つお城だと、現地を見て実感したのでした。
大きな大きな、鶴みたいな鳥が目の前からいきなり飛び立ったのにも度肝を抜かれた、思い出深い訪城となりました。
大葉沢城にいた鮎川氏は本庄城(後の村上城)を本拠とした本庄氏の一族であり、揚北衆の有力国人に成長しますが、本庄氏とはあまり仲良しではなかったようです。本庄氏が長尾氏(後の上杉氏)に叛旗を翻した際には上杉方について本庄城を攻めたりしているようですから。
とはいえ大葉沢城は本庄城と直線距離で5kmくらいしか離れていません。そうした中で常に本庄氏の脅威を感じた結果、狂気ともいえる防御施設に護られた城を作るに至ったのでしょう。少なくともこの畝状の構築物が障壁となって、攻め手はどうしても城壁に対して垂直となる方向からまっすぐ攻めるしかなくなるので、溝の一本一本を兵が通過する数秒の間、城兵からは常に射程に入ることになるわけですから。
近隣のライバルとの極度の緊張感が、この狂気とも呼べる城郭を作らせたのでしょう。独自の進化を遂げたお城として、戦国史上特筆すべきお城です。

<2022.12.10記>
大葉沢城は「クレイジーな畝を持つお城」として、お城好きの間ではそこそこ有名な存在になりました。筆者のところにも時折「大葉沢城に一緒に行きましょう」といったご提案を頂くようになり、ついにその中のひとつが実現しました。いざ誰かをご案内してみると、現地が自身の記憶とは異なるということがままあるものなのですが、筆者の記憶の中にあった大葉沢城は「平たいお城」だったので、登城口からの意外な登りに筆者自身が一番驚きました。「平たいんじゃなかったっけ?」という同行者の冷たいセリフを背中に浴びながら・・(笑)。それほどの比高があるわけではないのですが、登らないと思っていたお城での「登り坂」というのはしんどいですね。たはは。
今回改めて大葉沢城を訪れて、いわゆる主郭部分と「例の畝」の部分との間には結構な高低差があることを実感しました。イラスト等に描かれる典型的な「連続空堀群」には主要な郭の切岸近くから描かれるケースもありますが、大葉沢城は主郭下の通路から無数の畝が伸びている形です。畝自体も普通は高低差を持っていて、だからこそ「畝状”竪堀”」という言葉が半ば一般化しつつあるのですが、大葉沢城の畝はどう見ても竪堀ではありません。地元では「畝形阻塞」と呼んでいますが、この言葉も現地で実物を見るといかにもぴったりな用語遣いに感じられます。この手の遺構を正式に何と呼ぶのかは未だ議論が分かれるところだという認識ですが、最近の流れが「畝状竪堀」ではなく「連続空堀群」になりつつあるのも、大葉沢城のような例を見るにつけ納得感があります。
それにしてもこの空堀群、やっぱりクレイジーです(笑)。大葉沢城のある山が細長い主郭部の尾根だけが急峻で、裾野の方にやたらと傾斜の緩い部分があることを気にしての処置だったのだと冷静に考えては見るものの、だったら潔く主郭だけで守ればよかったのではなかろうか(実際、主郭の切岸は誰も登れそうにないですし)、と思わないでもありません。これだけの装置を設けなければならなかった当時の、恐らくは鮎川氏と本庄氏あるいは他の外来勢力との緊張状態を想像するにつけ、戦国時代という時代がいかに異常な世界であったのかを思い知らされます。恐ろしいお城ですね。大葉沢城。
ランク 新潟県9位
土塁、堀
創築:16世紀?鮎川氏
鮎川氏
アクセス 県道349号線を「普済寺」に向かって進んでいけば、やがて大葉沢城を示す看板が右側に見え、そこの公民館に車を停め、あとは案内看板に沿って遊歩道を進みます。


大葉沢城フォトギャラリー





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