五十公野城
いじみのじょう

(新潟県新発田市)
最終更新日:2015.1.25

地図

<2015.1.25記>
新潟のお城を巡る際にはどうしてもここは外せないと思い、新発田城から村上城に向かう間でわざわざ立ち寄りました。とはいえお城への正確な取り付き方が分からず、漠然と「五十公野東中学校の裏」と指定して車を走らせました。車を下りて最初に目に入ったのが、中学校のグラウンドの脇から山に入れそうな道。でもこの道は中学校の敷地内のようだったので、ぶらぶら探して「公園の散歩道」みたいな登り道から山に入りました。そこから一度右に折れると尾根上の道が続いており、なんとなくお城のにおいがしてきたところで、その行き止まりにどどん!とそびえ立つのが写真の石碑。ここが五十公野城で間違いないようです。思ったよりお城らしい遺構もなく、ただ平場と石碑があるばかり、といった感じ。この拍子抜け感もまた、五十公野で繰り広げられた空しい戦いの結果なのかもしれません。
石碑の裏手に、まっすぐ斜面を下りる道がありましたので、帰りはそちらからとっとこ山を下りました。その道は・・・何のことはない、最初に見た中学校のグラウンドの裏手の道に繋がっていたのでした。
Data
ランク -
土塁、堀
五十公野氏
五十公野氏
新潟にお住まいの方か、歴史にめっちゃ詳しい方でなければ読むことすらままならないのではないでしょうか。「五十公野」と書いて「いじみの」と読みます。この五十公野に拠点を構えた一族が五十公野氏で、有力氏族新発田氏と縁続きとなって、この地域に強大な勢力を築きます。
上杉謙信の死後勃発した御館の乱で、新発田重家(五十公野治長)は上杉景勝側につきますが、乱の後に行われた論功行賞に不満があり、景勝に対し叛旗を翻します。この裏には織田信長の後押しがあったとも言われ、戦闘は泥沼化。ところが肝心の信長が本能寺に倒れ、景勝が豊臣秀吉に急接近した時点で万事休す。新発田氏側は賊軍扱いとなり、重家の娘婿・五十公野信宗が立てこもったこの五十公野城も天正15(1587)年、落城します。足かけ6年にも亘る、新発田重家の乱の終焉です。
お城はそんな大戦が行われたという割には緩やかな遺構しかなく、むしろ普通の公園に見えるくらいです。上の文にもある通り、山下には特段の案内がありませんので、散歩道があったら登ればよいのね・・と割り切って登ってみてください。大した比高もありませんので。





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