平戸城
ひらどじょう



所在地:長崎県平戸市岩の上町
最終更新日:2020.3.29

<2016.5.1記>
秋田書店刊「日本名城100選」は古い編集のせいか、最近のお城選集には必ず含まれる"チャシ"や"グスク"が含まれていませんでした。そのせいもあって、平戸城は私にとって「100選のお城の中で最も訪ねにくいお城」という位置づけでした。実際、長崎のお城巡り旅行の旅程に組み込んだものの、玖島城からの道のりもとても長く、平戸に辿り着いた時には「やっとついた!」という気分満載でした(まあ要するに疲れた、ということで)。私が持っていた古い鉄道本によれば、平戸城より東にある平戸口駅(現・松浦西九州線・たびら平戸口駅)は「国鉄最西端の駅」として記録されていたように記憶しています。そんな記憶もあってか、平戸に辿り着いた時の私は「ついに私は西の果てまでやって来た!」という、大袈裟な感動に包まれていました(笑)。
平戸城はかなり早い段階から鉄筋コンクリートによる復興作業を進めていたため、コンクリートの建物と現存建築物のいずれもが同等に古びており、しかも現存建築物にガラスの窓なんぞが入っていますので、どれが現存でどれが復興なのかが写真を見ただけでは判然としません。その感想は実はお城を訪ねてみてもあまり変わらなかったのですが、このお城の良さは建物よりも部分部分でしっかりと作りこまれた築城の妙にあることは、現地を眺めて初めて気付いたところでした。全体としては山をそのまんま使っているのに、大手門だけは鏡石を配した石垣に守られた、やたらとがっしりした枡形門になっています。そもそもその通路の幅の広いこと!この幅は数十万石レベルの大藩のお城と同等なのでは?要所要所を守っているというより、変なところで妙に力が籠っているように見えるのは、このお城が江戸中期に再建された「松浦氏の悲願」であったことと無縁ではないのでしょう。
松浦氏の歴史は古く、その出身ははっきりしません。嵯峨源氏の流れを汲み、鬼の腕切り伝説を持つ渡辺綱の一族というのが最も一般的ですが、実は蝦夷の豪族・安倍宗任の子孫であるとの異説もあるのだとか。いずれにしても松浦氏は"松浦四十八党"と呼ばれる強力な武士団として結束し、武士台頭の時代から明治まで延々とその血脈を保つこととなりました。戦国時代には岸嶽城の波多氏を中心とする上松浦党と、平戸の松浦氏を中心とする下松浦党とに概ね二分されますが、波多氏は豊臣政権時代に改易となり、松浦党としては下松浦党に統一されることとなりました。
豊臣秀吉死後の慶長4(1599)年、時の松浦党当主・松浦鎮信は平戸城を新築します。この築城時期は近隣の大村氏が玖島城を築いた時期を概ね同一であり、特に珍しくも疑わしくもないのですが、完成間近の慶長18(1613)年になって自ら城を焼き、廃城とします。まだ一国一城令が出る前のことですし、そもそも平戸城は一国一城令の廃城対象でもありませんので、徳川幕府から睨まれるような、よほどの危機感を自覚していたのでしょう(後ろめたいことがあったのかな・・と・・ぶつぶつ)。以来平戸城は、松浦党にとって悲願の再建対象となりました(自分で焼いちゃっただけなのに・・・)。
念願叶うのは廃城から1世紀近くが経過した元禄16(1703)年のこと。こんな時期に築城許可が下りるのも異例のことですが、時の平戸藩主・松浦重信は勇躍して再建に取り組みます。縄張りを担当したのは軍学者として有名を馳せた山鹿素行とその子である高基・義昌兄弟でした。後にこの兄弟は平戸藩で召し抱えられます。築城許可の翌年から始められた工事は、3年後の宝永4(1707)年にはほぼ完成しました。天守は上げず、二の丸の三重櫓がその代用だったそうですから、現在本丸に建つ昭和の天守は、完全な模擬天守ということになりますね。そういえば本丸には天守台がなく、今の天守も地面からそのまま建っていました。
明治になって建物は狸櫓と北虎口門を残し、全て取り払われました。しかしこのお城の見どころは建物にはなく、要所要所をきっちりと占めている防御上の工夫です。たとえば狸櫓から主郭部分に上る途中に存在する「狭間」。土壁に穴を開けた鉄砲用の狭間ではなく、このお城では大砲も使えるように、石垣そのものに大きな口を開けてあります。無駄に丁寧な作りの大手門跡とともに、ぜひとも目を向けて欲しい遺構です。

<2020.3.29記>
続100名城スタンプを回収する旅のついでに100名城スタンプの押し直しの旅を並行している関係で、平戸城に改めて訪ねる機会が巡ってきました。前回と同じように長崎市内からの移動となったのですが、途中で佐世保バーガーを注入してスタミナが持続したのか、二度目の訪問で距離感がつかめていたからか、今回は比較的楽に平戸まで辿り着けました。折しも城内は改修中で、狸櫓には入れなくなっていました(これを機にガラス窓とかなくならないかな・・もう工事は終わったのかしら)。
そうそう。平戸城には宿泊施設がオープンします。1977年に作られた懐柔櫓の内部を宿泊できるように改装したもので、予定通りに準備がすすめば2020年の夏から本格運用が開始されます。再建建築物とはいえ城内の本物の櫓に宿泊できるというのは夢のような話ですね。懐柔櫓は海に面した山の上にありますので眺望は抜群。前は海、後ろは天守という、ここでしか味わえない風景を独り占めできるチャンスが巡ってきます。文化財保護の観点から見たらいろいろ考えどころもありそうですが(もっとも平戸城は史跡指定を受けていませんが)、こうした取り組みが実現すること自体、世の中のお城への関心の高さを物語っているのでしょう。前向きに応援したいと思います。
Data
ランク 100名城、100選、こんな城
天守(模擬)、櫓(現存、再建)、門(現存、再建)、石垣
創築:慶長4(1599)年、松浦鎮信 再建:元禄17(1704)年、松浦重信
松浦氏(平戸藩、61700石)
国道383号線で平戸市街に入る直前に切通しのようになっているところを通ります。右側に亀岡神社の石碑が現れたらすぐその先に平戸城への案内看板がありますので、すかさず右折しましょう。狭い道なので国道からの右折進入をためらいがちですが、全く問題ないので堂々と入りましょう(初回訪問時、私はここを入り損ね、めっちゃ遠いところに車を停め、歩いて登る羽目になりました)。少し進むと左側に駐車場が現れます。


平戸城フォトギャラリー






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