大島城
おおしまじょう

(長野県下伊那郡松川町)
最終更新日:2012.9.30

地図

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<2012.9.30記>
2011年に行われた、城仲間との伊那オフ会における最大の見所は、この大島城であることは間違いありません。歴史的にも他の伊那のお城と違い、武田氏の直接支配がなされた拠点城郭として、戦国時代における格式が一段か二段か違うお城です。折角なのでお城でお弁当を、ということで、いったんお城を通り過ぎ、コンビニでお弁当(と、私だけビールと)を買い込んで、三日月堀から散策を始めました。
美しいお城です。武田氏が作るお城には一種の冷徹さが漂うのですが、冷徹さから伝わる美しさみたいなものもあって、このお城では冷徹さより美しさが勝っている・・そんな印象を持ちました。地元に最も近い方から、「よく見ると土橋の脇には石垣がある」とかいろんなことを教わりながら、ふむふむと感心しきりで一通りの見学を済ませました。本丸の四阿でお弁当を食べましたが、待ちきれなかった私はこの四阿に辿り着くまでに、缶ビールを一本飲み干してしまいました。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:12世紀、片切氏 改築:元亀2(1571)年、秋山信友
秋山氏、武田氏
もとは伊那地域の有力土豪であった片切氏によって砦が築かれていた場所のようですが、本格的な築城がなされたのは元亀2(1571)年、武田信玄が秋山信友に命じて大修築させた時だと言われています。そういう意味では、ほぼ100%武田氏の戦略思想に基づく築城がなされていると言ってもよいでしょう。大島城には信玄の死後、信玄の弟の武田信廉が入りますが、天正10(1582)年の織田信忠による信州侵攻に当たり、戦わずして城を明け渡すという、なんともみっともない最期を迎えています。武田勝頼を当主としたことで武田氏との運命共同体化した諏訪衆を多く抱える高遠城と、強大な権力に対し渋々服従している伊那衆を束ねる大島城では、織田氏に対する意気込みがまるで違ったのでしょう。信廉の統率力のなさをやり玉に挙げては、信廉があまりに可哀相。でもまあ、みっともない最期であることは弁護のしようがありませんが。
お城は天竜川に突き出した台地の突端を本丸とし、土塁と横堀とを巧みに駆使して攻め手を翻弄する、武田氏得意の縄張りで築かれています。特徴的なのは平野部に突き出した、大きな二重の三日月堀。これは心理的にも相当な威圧感を与えていたことでしょう。残存状況も良好で、まーるい堀の形を辿ることができます。
城跡全体が「台城公園」として整備されていますので、歩き回るのも容易です。信州の名だたる城郭に押されて知名度はいまひとつですが、訪ねる価値は十分なお城です。





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