一夜の城
いちやのじょう

(長野県伊那市)
最終更新日:2013.12.21

地図

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<2012.3.17記>
織田信忠の高遠攻めの際に一夜で築かれたとの伝承がある「一夜の城」。このお城の土塁が、市道の拡幅に伴って削られる運命にあるらしい、という話が報道されてから、もう何年かの日々が過ぎ去ったような気がします。いかにも狭い土塁の前の道を航空写真で見るにつけ、「これでは地元の方も大変だろうな」と思う気持ちもあり、一方で意外にも綺麗に残る四角形の土塁が、一部なりとも破壊されるのはいかにも忍びなく・・・地元でもまだ市道拡幅か遺跡保存かの結論が出ていない中、土塁と堀の一部が発掘調査されました。その結果、本当に一夜にして築かれたのではなく、中世の館を活用した陣城であったことがほぼ明らかになったとのこと。それはそうだろうと思いつつ、しかし「一夜にして築かれた」との伝承あればこそ、その「一夜」から400年以上も経過した現在まで、破壊されることもなくその跡を留めてきたとも思えてなりません。現代の世に生きる人の利便が優先されるべきなのか、歴史とともに生きる人間の宿命として、その地に営まれた歴史の痕跡を後世に伝えるべきなのか。子供の頃から考え続けているこの命題に、未だに答が出せずにいます。

<2013.12.21>
2013年の早春に、一夜の城を訪ねてみました。織田信忠の伝説がなければごくごく普通の方形館で、伝説がなければとうの昔に削り去られていてもおかしくないくらいの館跡だなあ・・というのが率直な印象です。ただ、この場所が醸し出す雰囲気にはなんとも言えない懐かしさがあって、この館を含めた風景そのものを後世に伝えなければならないのではないか、という思いを抱いたのもまた事実です。土塁の上には、沢山の福寿草が咲き誇っていました。
Data
ランク -
土塁、堀
創築(改築):天正10(1582)年、織田信忠
織田氏
武田氏滅亡を間近に控えた天正10(1582)年2月、高遠城攻撃の準備を整えた織田信忠が「かいぬま原」に陣取ったという話が「信長公記」にあり、どうやらこのあたりに織田信忠が陣を構えたことだけは間違いなさそうです。地元ではこの場所をそこだと伝え、そこに残る土塁を「織田信忠が一夜で作らせた城」として「一夜の城」という伝承名とともに、現代にまでその姿とその言われを伝えてきたものです。
現在は概ね50m四方の四角形の区画を一重の土塁で囲った状態が残されていますが、発掘調査の結果、この土塁の外側には堀があったことがわかり、形状としては陣城というより中世城館、その中世城館を織田氏が簡単に改造して陣城としたのではないか、との結論になりつつあるようです。
一夜にして築かれたものであるか否かはさておき・・・
高遠城を守り、城を枕に華々しく討死した、武田信玄の子、仁科盛信。享年、満24歳。
そのわずか4ヶ月後、本能寺の変によって非業の死を遂げた高遠城攻撃の総司令官、織田信忠。こちらも享年、満24歳。
若くして死なせるにはあまりにも惜しい、戦国屈指の貴公子たちの悲運。
この地で繰り広げれた悲しい戦いの歴史は、長く後世に語り継がれるべきものではないでしょうか。





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