都於郡城
とのこおりじょう



所在地:宮崎県西都市鹿野田
最終更新日:2017.10.9

   
<2017.10.9記>
「都於郡」という文字列を何と読むのか。これほどの難読地名はなかなかないのではないかと思われるほどの難解な地名ですが、これで「とのこおり」と読みます。漢文的に読むと「郡」に「於」ける「都」となるので、「こおりのと」が正しそうな気がするのですが、漢字の順序はこのままで「とのこおり」。いずれにしても古来何らかの役所なり中心街があった場所らしいことは想像できる地名です。その都於郡にどっしりと鎮座しているのが都於郡城。南北朝時代、足利氏への助力の功を受けて日向の一角を与えられた伊東祐持が本拠として以来、宮崎市に近い佐土原城とともに伊東氏の勢力拡大の基盤として栄え続けたお城です。伊東氏は大友氏や島津氏の勢力をうまく退けながら、一時は日向国一円を支配するほどに勢力を拡大しましたが、島津氏の攻勢に押され、ついにはその領土を失います。伊東氏はその後豊臣秀吉の庇護のもとで飫肥の領主として返り咲き、飫肥藩主として明治まで頑張りますが、都於郡城は島津氏に奪われた後、次第にその役割を終えて元和の一国一城令を機に廃城となりました。
お城は本城部分だけでも大きな五つの曲輪を持ち、それぞれの曲輪は深い堀に隔てられて互いに独立した造りとなっています。典型的な群郭式城郭と呼べるもので、南九州の代表的拠点城郭として国の史跡にも指定されています。
私が訪ねた日はしとしとと雨の降る日で、全般に草むらとなっている都於郡城を散策するには全くもって不向きな日でした。個々の曲輪を訪ねるためには山を登ったり下りたりしなければならず、大変に往生したのを覚えています。何しろ堀が深くて深くて。隣の曲輪に行くために堀を直降して直登する、というのは城めぐりではしばしば直面する体験ですが、都於郡城はそれすらも許されません。後でわかったことですが、これだけの規模の堀を持つお城が南九州にはごろごろしています。こと、お城に関して言えば、南九州はとてつもなく恐ろしいエリアだと思いました。
主郭には板碑を集めたような不思議な石造物があって、あたかも古代遺跡のような雰囲気を湛えています。カメラを向けてシャッターを切った瞬間、雨がどどーっ!と強く降ってきました。私、何か悪いことでもしたのかしらん。。。
ランク 国史跡、山城100、宮崎県5位
土塁、堀
創築:建武2(1335)年、伊東祐持
伊東氏、島津氏
アクセス   国史跡に指定されているためか、近隣の道路には道路標識上に「都於郡城」の方向が示されています。そのため、まず道に迷うことはないでしょう。駐車場もちょっと離れたところではあるものの、トイレ付の広いものが用意されています。


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