涌谷城
わくやじょう

(宮城県遠田郡涌谷町)
最終更新日:2015.10.11

地図

<2015.10.11記>
東北のお城を巡る旅の中で、どうしても外したくなかった場所のひとつがこの涌谷城。正式には涌谷要害ですが、まあ実質的にはお城なので、ここでも涌谷城としておきます。
見たかったのは、上の写真の石垣。右側半分は江戸時代のものなのですが、その反り方が普通じゃなくて。扇の勾配のやりすぎで、上の方はいわゆるオーバーハング状態になってしまっています。どうしてこんなふうに積んじゃったんでしょう。
その不思議な石垣が目に入った瞬間、駐車場を通り越してそのまま石垣の近くまで車で入り込んでしまい、まあいいかと路肩に車を停めて石垣の写真を撮っていたら、後ろからクラクションが「ぷっぷっ」と。
見れば私の車が邪魔で、駐車場から出られない車が、私の車に苦情を申し立てていました。ばたばたと車に戻り、ごめんなさい、とばかりに急速バック。石垣からもみるみる遠ざかりました。
折しも雨が激しくなり、もう一度車を下りて城内を周るだけの気力が戻らず、先を急ぐことにしましたので、涌谷城の写真はここから先がありません。今思えばなんてもったいないことをしたのでしょう。あんなに行きたい場所だったのに。
Data
ランク -
天守(模擬)、櫓(現存)、石垣、堀
創築:永享3(1431)年?、涌谷直信
涌谷氏、亘理(涌谷伊達)氏(22000石)
涌谷の地は長く涌谷氏の支配下にありました。涌谷氏は大崎氏の一族で、大崎氏初代家兼の孫、または五代目満持の甥・直信を初代とするようです。後者の説を採った場合、直信が涌谷城に入ったのは永享3(1431)年のことになるそうです。それでも十分に長い歴史を持ったお城ということになります。
涌谷氏は大崎氏と運命を共にします。小田原の役に参陣しなかった大崎氏は豊臣秀吉によって根こそぎ改易され、涌谷氏も知行を失いました。空白となった涌谷後は豊臣秀吉の臣・木村吉清の支配下におかれましたが葛西・大崎一揆に翻弄されて改易となり、その後は伊達政宗の支配下となりました。政宗は涌谷城に信頼できる臣・亘理重宗を入れ、亘理氏は後に涌谷伊達氏として伊達氏一門に名を連ねることとなります。
涌谷伊達氏2代目の伊達宗重(伊達安芸)の時、いわゆる伊達騒動(「樅の木は残った」の題材ですね)が起き、その渦中に宗重は惨殺されます。寛文11(1671)年のことでしたが、涌谷伊達氏はその後も涌谷を守り続け、明治まで存続します。
涌谷城そのものは元禄2(1689)年に一度全焼していますが、涌谷伊達氏によって建物は再建されたようです。現存する太鼓堂(太鼓櫓)は宮城県内に唯一現存する二重櫓で、天保4(1833)年に再建されたものだそうです。その他の建物は明治になって取り壊されました。現在、太鼓堂の隣に涌谷町立史料館が天守風に作られていますが、この建物は涌谷城とは何の関係もありません。
太鼓堂とその手前の石垣以外にはお城っぽいところがあまり感じられないお城ですが、桜の名所として春には多くの花見客で賑わうそうです。





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