岩出山城
いわでやまじょう

(宮城県大崎市)
最終更新日:2015.10.23

地図

岩出山城フォトギャラリーはこちら

<2015.10.23記>
あたりが薄暗くなる中、ぎりぎりのタイミングで岩出山城に滑り込んだ私は、小走りに城内を散策して回りました。驚いたのは天気も悪いこんな時間帯に、二人連れの若い女性が「お城を見に」来ていたということ。伊達政宗好きの歴女・・・というところでしょうか。お城としてはむしろ地味な部類に入る岩出山城ですが、こうして人を集まる魅力を秘めているんだな、とちょっぴり嬉しくなりました。
ところで岩出山城、半分くらい学校に敷地を奪われていますが、残っている部分は案外立派でした。特に川に面した側は切り立った断崖になっていて、およそ侵入できそうな気配を感じません。思えば仙台城も断崖の上に建つお城ですし、東北には概してそういう立地のお城が多いのかもしれません。
Data
ランク 宮城県2位
石垣、土塁、堀
創築:応永年間(1394〜1427)年、氏家直益 改築:天正19(1591)年、伊達政宗
氏家氏、萩田氏、伊達氏
岩出山城のある場所は大崎市に属しており、岩出山市というものは存在しません。このあたりが土地勘のない人間にはわかりにくいのですが、岩出山を含むエリアは古来「大崎」であり、大崎氏の支配下にあった場所です。岩出山城はその大崎氏の重臣である氏家直益によって応永年間に築かれたものと伝えられます。
大崎氏は豊臣秀吉の天下統一過程で取り残され、その広大な領地はまるまる召し上げられました。後に入った秀吉家臣・木村吉清はその臣・萩田三右衛門を岩出山に据えますが、岩出山で発した一揆(葛西・大崎一揆)を抑えることができず、一揆を鎮圧した伊達政宗が岩出山を領することとなりました。天正19(1591)年に政宗は岩出山城を大改築して本城としますが、その際には徳川家康の言うことをよく聞き、その臣・榊原康政が縄張りを担当したとも伝えられます。
関ヶ原の戦いの後、伊達政宗は新たに仙台城を築いて移転し、あとには政宗の四男・宗泰が入って「岩出山要害」となり、明治まで実質的な城郭として存続します。廃城時まで建物も存在していたようですが、明治に入って失火により全てが失われたのだとか。ただ岩出山城から内川を挟んだ反対側にある藩校・有備館だけは残り、現在国史跡の指定を受けています。
お城は一部を学校に占拠されていますが、険しい崖の上に築かれた本丸等の主要曲輪は残されています。本丸への虎口には石垣も築かれていますが、あまりお城っぽい石垣ではないのが残念(?)です。しかし、このお城の最大の特徴はなんといっても「崖」。石垣などに頼らずとも、天険の要害であることが現地に行けばわかります。さすがは伊達の本城、といったところでしょうか。





inserted by FC2 system