田辺城
たなべじょう

(京都府舞鶴市)
最終更新日:2016.1.23

地図

田辺城フォトギャラリーはこちら

<2016.1.23記>
社会人2年目の冬。岡山への道すがら、福知山城から天橋立へと「大」寄り道をしたことがありました。その際に立ち寄ったことがありましたが、その時は車から降りることもなく、ただ模擬櫓の脇を通過しただけでした。町の中にすっかり埋もれた印象だったのを覚えています。
それから20年以上の時を隔てて再び訪れた田辺城は、あの時の印象よりもずっと「お城らしく」なっていました。
Data
ランク 「100選」
櫓(復元)、門(復元)、石垣
創築:天正7(1579)年、細川藤孝 改築:寛文8(1668)年、牧野親成
細川氏、京極氏、牧野氏(舞鶴藩、35000石)
織田信長の命により、細川藤孝(幽斎)は丹後の守護・一色家を倒します。その功により丹後を任せられた藤孝は、天正7(1579)年にこの田辺城を築きます。田辺城の築城時期は明智光秀の福知山城とほぼ同じ時期であるあたり、この地域が一度に織田勢力下に組み込まれた様子が窺えます。細川氏はこの田辺城と近隣の宮津城との二城を支配拠点として、宮津城に藤孝、田辺城に息子の忠興とそれぞれに居住した時代もありました。
関ヶ原の戦いの際には、東軍方の有力武将として関ヶ原に参戦していた忠興に代わり、藤孝がわずか500名ほどの兵とともに田辺城に籠り、西軍1万5000名の大軍の攻撃を受けました。この際、藤孝が有していた古今伝授が途絶えるのを危惧した後陽成天皇の勅命によって休戦となった話は有名です。藤孝、このときには相当なじいさんだったと思うんですが、大軍を相手に一歩も引かなかったあたり、さすがは歴戦の勇士です。
関ヶ原の戦いの後、細川氏は小倉城へと移動し、同じく東軍の将・京極高知が丹後一国12万3000石の主となって田辺城に入ります。ただ京極氏は後に宮津城を本城としましたので、田辺城はいったん一国一城令によって廃城となります。が、高知の息子たちが宮津、田辺、そして峰山の三藩に分離することとなったため、田辺藩3万5千石の藩主となった高知の次男・高三によって田辺城は再興されます。田辺藩主の京極氏は豊岡藩へと転封され、その後に入った牧野氏によって田辺城は三たび改築され、そのまま牧野氏の城として明治を迎えることとなりました。
平成に入ってからの発掘調査により、埋もれていた田辺城の天守台の位置が特定され、一部復元されました。私が20年ぶりに訪ねた際、お城らしくなったと感じたのは、こうした発掘成果による石垣が地上に現れたからなのでしょう。発掘の結果、天守(天守丸)と本丸との接続方法こそ変化したものの、天守の位置そのものは細川氏の時代から動いていないことなどがわかりました。
お城は現在、西舞鶴駅の近くの市街地に大半が埋もれていますが、上述の通り本丸近辺は整備が進み、隅櫓の他、巨大な大手門が復元されています。





inserted by FC2 system