二条城
にじょうじょう



所在地:京都府京都市中京区二条城町
最終更新日:2020.10.27
<2012.5.20記>
二条の地に築かれた二条城は複数存在します。織田信長が足利義昭のために造営したのも二条城ですし、豊臣秀吉も二条城を作っています。が、現在残る二条城を築いたのは徳川家康。二の丸御殿は当時からのもので、二条城の中で最も古く、かつまた最も格式の高い御殿です。
二条城は「城」ではなく、将軍家宿泊のための「御殿」であるという定義も時折耳にします。実際にこの目で見る限り、この構成はまぎれもなく、お城。入口に枡形門がなかったりとか、近世城郭にあるべきものが時折見当たらなかったりしますけれども。
二の丸御殿はいろんな歴史的事件を目の当たりにしてきました。古くは徳川家康と豊臣秀頼の対面の場として。今一つは明治維新の折、大政奉還がとり行われた場所として。京都における徳川家正式の御座所であるが故に、平時は何事もない代わりに、有事の際には突如として歴史の表舞台に躍り出ることを運命付けられています。二条城は戦いこそ経験していませんが、その歴史はなかなか複雑です。

二条城を訪ねたのは相当古く、たしか小学校6年生の夏に、父の計らいで彦根・二条・大坂・姫路の4城に連れて行ってもらったのが最初だったと思います。「うん。これが北中仕切門だ。これが廊下橋門だ。正面に窓がないのはかつて廊下が連結していたからで・・・」と、建物のひとつひとつを指差し確認しながら歩き回る小学生は実に不気味だったことでしょう。二の丸御殿の内部はほとんど覚えていないくせに、本丸天守台を見て、「これはやっぱり、れっきとしたお城なんだな」と妙に実感したことの方をしっかり覚えています。
それからもう一度、高校の修学旅行で行ったのだったか行かなかったのだったか・・・曖昧な記憶のまま、長らく再訪の機会を逸したまま、いたずらに時だけが流れていきます。

<2020.10.27記>
2020年の秋になって、実に久々にゆっくりと二条城を堪能する機会に巡り合いました。この旅の直前に信州の小笠原書院を見て「すごい書院だ」と感動したものでしたが、そんな感動がやたらと小さなものに感じられるほど、久々に見る二の丸御殿の荘厳さには圧倒されました。これに匹敵する格式を持つ御殿として名古屋城の本丸御殿も復元されましたが、復元されてまだ何年も経たない名古屋城と、400余年の歳月を経てきた二条城とを比べる方がどうかしています。長い時間を経たものだけが纏うことのできる「重み」みたいなものに圧倒され、うっかりするとこちらが押しつぶされてしまいそうです。
二の丸御殿を出て「おお。これが中仕切門か。うんうん廊下橋門。窓がないのはかつて廊下が連結していたからで・・・」と、いつもより更に口数多く城内を歩き回ったのですが、このセリフ、上の文章に出てくる小学生の頃と丸被り。不気味な小学生は、40年という年月を経て不気味なおじさんとなりました(笑)。
本丸に入ったのも40年ぶりでしたが、天守台に立って「うんうん、実戦的だ」と実感したのも小学生の頃といささかも変わりなくて。あの頃がとんでもなかったのか、私自身に大した進歩がないのか・・・うーむ。ただ、あの頃にはたぶん目に入らなかった「雁木」が、今回はしっかり視野に入りました。あちこちのお城を巡った後で二条城の本丸を眺めると、本丸だけに枡形がある(しかも片方は外枡形、片方は内枡形)ことや、雁木によって本丸石垣のどこにでも最短距離で兵員を配置できる構造など、これでもか!というくらいに実戦的です。枡形さえ構築されず、石垣も低ければ堀も狭い二の丸とは大違い。これが徳川家康(二の丸築城者)と秀忠(本丸築城者)の性格の違いから来るのであればとっても面白いですよね。
二の丸には茶屋があって、お抹茶が頂けます。ここまで聚楽第とあまたの「二条城」を眺め歩いてきた疲れを癒すべく、お抹茶セットと一緒に頂いたのが地ビールで(笑)。生まれて初めて、お抹茶とビールを一緒に頂きました。
Data
ランク 国史跡、特別名勝、世界遺産、100名城、100選、百選、こんな城、京都府1位
御殿(国宝)、櫓(重文))、門(重文)、石垣、堀
創築:慶長8(1603)年、徳川家康
徳川氏
  地下鉄東西線二条城駅が最寄り駅ですが、山陰本線二条駅からでも十分に徒歩圏です。東大手門前に駐車場もあります(あまり車で訪れる方はいないと思いますが・・)。


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