福知山城
ふくちやまじょう



所在地:京都府福知山市字内記
最終更新日:2022.2.25
<2012.5.12記>
社会人2年目の冬・・・だったかと思います。岡山の友人を訪ねて夜中に車を飛ばし、順調過ぎてあまりにも早く関西に辿り着いてしまったので、進路を北に転じ、天橋立を眺めた後、福知山城に立ち寄ることにしました。小学生だった頃に読んだ「日本名城100選」では、天守台の上に「銅門続櫓(あかがねもんつづきやぐら)」が建っている写真が掲載されていたのですが、眼前に聳えるのは、古風ながらも煌びやかな輝きを見せる、建てられたばかりの天守閣。東側の川に架けられた大きな太鼓橋から見た姿がとっても印象的でした。
とはいえもとより早朝のこと、開館しているわけもなく、私はその足で岡山へと向かったのでありました。それから20年。いつか再訪できるのでしょうか。
福知山城は、明智光秀によって築かれたお城です。織田信長から丹波国の平定を命じられていた明智光秀は、さんざんの苦労の後、福山地域にあった横山城の塩見氏を駆逐し、丹波平定を成し遂げます。光秀は福山の地に自身の「明智」の「智」を入れ込んで「福智山」と改名したと伝えられ、これが現在の「福知山」という地名に繋がっています。光秀は横山城のあった場所に大々的な築城を行い、突貫工事で完成させた城を「福智山城」と名付けました。これが相当な突貫工事であったことが、現在の天守台の石垣の間に近隣からかき集められた石仏や石臼等が混ざり込んでいることから推察できます。どちらかといえば「紳士」的な側面が目立つ光秀が石仏まで集めて石垣を作らせたのは驚きですが、イメージはあくまでイメージであり、やるときにはしっかりやる、ということなのでしょう。天正8(1580)年頃には城郭が完成して重臣の明智秀満が入城し(光秀は亀山城に居住)、丹波支配の重要な拠点となりました。ただしその2年後には、早くも本能寺の変を迎えることとなり、明智氏はこの地から消え去ることになります。
明智氏の後の福知山城は、豊臣政権下で豊臣秀勝の他、杉原氏、小野木氏が入ります。小野木氏の時に関ヶ原の戦いが勃発し、西軍に与した小野木氏は、福知山から北上して田辺城の細川氏を攻めますが落とせず、関ヶ原の戦いの後、むしろ細川氏の逆襲を受けてしまいました。その後、有馬豊氏が入ったところで城下町が整えられ、以後、時々天領になったりしながらも、岡部氏、稲葉氏、松平(深溝)氏と繋いだ後、土浦城(茨城県)から朽木氏がやってきて、漸く落ち着きます。
お城は台地の突端、東の外れに本丸を置き、西向きに二の丸、三の丸を順に構える構造でしたが、二の丸と三の丸は削られ、街中に没しました。城郭の建物も、銅門(あかがねもん)続櫓と呼ばれる番所を残して移築されたり解体されたりしましたが、昭和61年になって古図などを基に天守が復元され、町のシンボルとなっています。

<2019.9.21記>
続100名城に選ばれた上、2020年の大河ドラマ主人公が明智光秀に決まったことで、福知山城にも相当な観光客が押し寄せることが予想されます(いや、沢山押し寄せて頂かないと困るのですが^^;)。で、まあ、そうなる前に行っておこうと福知山城にも立ち寄ったのですが、よく調べていなかったせいかこの日は休館。続100名城のスタンプは福知山駅にある、とのことで、福知山駅へと移動し、無事にスタンプは押せたのですが、帰宅後に写真データを失うという・・・。
はるか30年近く前にも天守内を見学できなかった福知山城。ほんとに、いつになったら中が見られるやら。

<2021.4.21記>
福知山城にも大河ドラマ「麒麟がくる」関連の展示施設があるというので、改めて福知山城を訪ねてみました。福知山城は光秀推し一色でしたが、コロナ禍に翻弄される時節でもあり、かつまた肝心の大河ドラマで丹波がほとんど取り上げられなかったこともあり、訪れる人もまばらな状態。お城近くの駐車場に接するエリアにはちょっとしたショップ街も設置されているのですが、こうしたお店にも客足の少なさは少なからぬ衝撃だったはず。ただ、福知山の光秀推しは決して一過性のものではなく、明智の「知」を地名に取り込んだその名の通り、今までもこれからも光秀推しで行くことでしょう。新たな時代を切り拓こうと、織田信長という大きな「時流」にただ一人で立ち向かった明智光秀の評価は、「麒麟がくる」に拠らずともこれからも一層高まることと思います。その時には「光秀の街」としての福知山はもっともっと輝いて見えることでしょう。
ところで福知山城の天守ですが、誠に変わった外観をしています。複雑な屋根の構成、古めかしい板張りの姿など、唯一無二のデザインとなっていますが、これは古図などをもとに当時の姿を可能な限り外観復元しようとした結果だそうです。最近見つかった古写真でもほぼ現在の姿と変わらぬ天守が写っていたそうで、復元時のご苦労が改めて報われたと言えそうです。四角形ではない複雑な形状の天守台に複雑な平面を持つ低層の建物を作り、大きな入母屋屋根で強引に高層建築化する「初期の天守」の姿をよく伝えているこの天守は、同じように複雑な天守台を持つ越前大野城のかつての姿を想像するのにも役立ちます(越前大野城はそんな天守台の「一部」に、比較的「普通の形」をした天守を模擬的に乗っけているのが現在の姿です)。「変な建物だなー」などと言わず、ぜひ感心しながらじっくりとその外観を眺めて頂きたいと思っています。

<2022.2.25記>
福知山城の本丸には天守をはじめとする一連の建物が再建されていますが、その一角にひとつだけ現存建造物があります。「銅門番所」です。昭和50年代に筆者が入手した本では「銅門続櫓」と記載され、天守台の上に移築された写真が掲載されていましたが、現在は天守台の下の本丸内に再移築されています。もともとの銅門は二の丸の北側にあって、大手門から本丸に向かうルート上に位置していますので、二の丸大手門と言ってもよさそうな門です。古図にも銅門の手前の枡形空間に番所風の建物が描かれています。
福知山城の二の丸は明治時代に削平されて陸軍病院が作られ、国立病院、更に市立福地山市民病院となって、昭和45(1970)年に移転しています。かくして現在は住宅地となっているわけですが、そもそもなんでまたわざわざ二の丸を削平したんでしょうね。福知山城の本丸からは、かつて山続きだった伯耆丸や内記丸が住宅の向こうに島のように取り残されているのを見ることができます。この間にあった山から病院用地を削りださなければならなかった背景、どうにも理解し難いところです。
さて銅門番所。この建物だけが移築されたのは、移築しやすく再利用しやすい形状・サイズであったことと、比較的傷みが少なかった(新しかった?)ことなどがあったんでしょうね。昭和の本では「櫓」となっていましたが、現状の表記は「番所」です。櫓と番所は何が違うのかというとそれほど厳密な違いはなくて、番所として使われた櫓も実際にあったと思いますので、まあどちらでもよいといえばよいのですが、「全国の現存櫓」の数を数えたい人などには悩ましい建物になりそうですね。江戸城の百人番所や久保田城の御物頭御番所は櫓ではありませんが、福知山城のこれは・・・?と頭を抱える人もきっといることでしょう(笑)。片側が大きく開かれていかにも「受付」風な建物の形状は、まあ間違いなく番所ですね。古図でも石垣際ではなく枡形内にあったようなので、この建物の窓から外敵を狙う(いわゆる「矢倉」ですね)役割は担っていなかったでしょうから、ますます番所です。ただ筆者の頭の中には小学生の頃から「銅門続櫓」としてインプットさ。れてしまいました。こういう記憶を上書きするのって案外大変なんですよね。「銅門続櫓じゃなくて銅門番所」。今の筆者の頭の中ではこんなデータになっています(笑)。
Data
ランク 続100名城、100選、京都府7位
天守(復元)、番所(現存)、門(移築・再建)、石垣、堀
創築:天正7(1579)年、明智光秀 改築:慶長6(1601)年頃、有馬豊氏
明智氏、豊臣氏、杉原氏、小野木氏、有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平(深溝)氏、朽木氏(福知山藩、32,000石)
福知山駅の北口から「お城通り」に出て右(東)に向かい、1kmほど歩くと福知山城です。車ならナビで普通に福知山城を選択すればOKです。駐車場はお城の東側に大きな専用駐車場があります。


福知山城フォトギャラリー





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