隈府城
わいふじょう

(熊本県菊池市)
最終更新日:2016.3.6

地図

<2016.3.6記>
菊池市を通って隈府城(菊池本城)に立ち寄らなければ・・・という気持ちは強かったのですが、隈府氏館に立ち寄ってしまったので、隈府城まで戻ってくることに大きく時間を費やしてしまい、その後の行程が大きく乱れてしまいました。今思えば、わざわざ隈府城にまで戻らなくてもよかったような。。
隈府城のあたりは「隈府城」と「菊池本城」を別のお城として見る方があったり、隈府城と菊池本城を同一の城として見る方があったり様々だったので、まずはこの目で見てみようというのが正直なところでした。で、実際に見た感想としては、「隈府城と菊池本城は同一の城」という結論です。菊池神社のあるところ(隈府城)と、菊池公園のあるところ(菊池本城)をわざわざ別の城として考えるほど、個々のお城に独立性はなさそうです。
遺構らしいものもあまりないなあ・・と思いながら菊池神社の裏側に回ってみましたが、そこでびっくり。ものの見事に横堀が神社を巡っているではありませんか。しかしこれが竹藪の中で、写真に納めると上のように何がなんだか・・(笑)。
なお、菊池公園の側に「菊池本城」の石碑があるとか聞いたような気がしたので暫く彷徨いましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:不明、菊池氏 改築:16世紀後半、隈部親永
菊池氏、隈部氏
肥後の盟主として栄えた菊池氏の本拠地です。菊池氏の出自ははっきりしませんが、そもそもの発祥は鞠智城を守る役割を担った一族だったのではないかとも言われ、もしかしたら奈良時代にまで遡る可能性のある名族です。菊池氏は源平合戦でも活躍しますが、この時源氏と平氏との間をいったりきたりしたため、早くから源氏方についた小弐氏や島津氏に比べると源頼朝の印象もよくなかったようで、肥後界隈に鎌倉御家人が多く入り込むきっかけを作ってしまいました。肥後近辺に相良氏や伊東氏など、静岡県界隈の地名に由来を持つ一族が入ってきたのはこれが原因ということなのでしょう。
菊池氏はそれでも肥後の盟主として長く興隆を極めますが、16世紀には名目的な存在となり、肥後国主の「名目」を得るため大友氏などからの養子介入を受け、事実上滅亡します。このあたり、関東の名族・千葉氏と似たような運命です。
そんな菊池氏の本城を隈府城と呼びます。「隈府」はもともと肥後守護所の所在地を指す言葉で、菊池氏が代々その役を担ったことによるものですから、菊池本城=隈府城というのも合点がゆく話です。最盛期には「菊池十八城」と呼ばれる城郭群が整備され、現在の菊池市全域を「面」で守っていたようです。その中心が隈府城ということになるのですが、お城らしい遺構に乏しいのは「面」で守る戦略の問題か、はたまた菊池氏の没落が比較的早かったからか。私はなんとなく後者のような気がしています。それでも菊池神社と菊池公園の全域がお城だったと考えると、さすがに大規模なものではあったのでしょう。
隈府城の最終形(菊池神社の空堀など)は、戦国時代の最末期に隈府城に入った隈部親永によるものでしょう。隈部氏はここを本拠として佐々成政に堂々と反旗を翻し、そして破れてゆきました。





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