人吉城
ひとよしじょう



所在地:熊本県人吉市麓町
最終更新日:2019.7.7

<2011.10.29記>
1泊2日の九州縦断という無謀な企画の中で、最も時間的に犠牲を強いたのが、この人吉城です。ちょうど消防関連のお祭りをやっている日にぶつかってしまい、あちこちで車両通行制限にひっかかったばかりでなく、駐車場も満車。やむなく、お城からずっと離れた消防署(?)の臨時駐車場に車を止めて、500mくらい全力疾走して、スタンプのある史料館へと急ぎました。
車を止めるために相当の時間を使ってしまったため、もはや本丸に上がる時間もなく・・・
やむなく、有名な跳出石垣だけ拝んで、あとは再び車へと一目散。再び車両通行制限に引っかかりながら、やっとのことで人吉を脱出しました。
無茶な旅程を組んだ自分がいけないとは思いつつ、この旅行の中で最もいらいらした思い出が残ってしまった、人吉の町。結局本丸にも足を踏み入れていないし、いずれまたもう一度行かないと、なんだか人吉城にも人吉の町にも申し訳ないような気がしています。
相良氏はもともと静岡県の相良(現・牧之原市)に拠点を構えた豪族でしたが、鎌倉幕府の命により地頭として人吉の地に降り立ち、そのまま脈々と明治までほぼ一貫してこの地を治めつづけるという、驚異的な一族です。九州には島津氏や伊東氏のように、鎌倉以来という名族が多いですね。
人吉相良氏初代の長頼が人吉に入ったのが元久2(1205)年ですから、相良氏の治政は実に600年近くに及びます。そうした中、相良氏はほぼ一貫して人吉城の地を本拠とし続けており、中世居館から近世城郭へと、次第次第に変貌を遂げていくことになります。現在の人吉城の姿が完成したのは、江戸時代に入った寛永16(1639)年のこと。現在の人吉城の本丸の外側には、人吉城の主要部分に比肩するサイズの曲輪が山中に散在しています。同規模の曲輪が特に連携もせず存在するという、南九州に特有ないわゆる群郭式城郭の一端を垣間見ることができます。一方、石垣の一部にはいわゆる「跳出石垣」が装備されています。石垣の最上段が飛び出し、石垣の踏破を阻止する構えです。五稜郭やお台場等、お城としては最も新しい時代に属するこうした近代的な装備も備えている点で、人吉城はそれ自体が城郭史の博物館のようになっています。

<2019.7.7記>
2018年に、じっくり時間をかけて人吉城を訪ねました。歴史館で相良氏のお家騒動を学んだ後、待望(?)の本丸へ。現地で初めて、かつて本丸だと思っていたところが二の丸で、二の丸だと思っていたところが三の丸だったということに気づきました。それでは本丸はどうなっているかというと、そこには天守も御殿もなく、護摩堂があったのだとか。もともとこの場所は人吉相良家初代の長頼が人吉城内で見つけ出した「繊月石」を祀っていた場所でした。繊月石とは、三日月(繊月)の模様が入った石のことで、これを瑞兆と捉えた長頼がご神体として祀ったのが始まりなのだそうです。第三者的に考えると、郷里を離れて見知らぬ土地を支配することになった長頼が、自身がその地を支配するための「よりどころ」みたいなものを求め、それが「繊月石」という形になって表れたのではないか、と推測します。人工的に「聖地」を求めたという点ではかなり古い事例と言えるのではないでしょうか。繊月石は現在も、人吉城内にある相良神社に鎮座しているそうです。
人吉城の山上部分に至る最初の門が「御下門」です。写真で見るとなんということもない場所なのですが、現地で見るとやたらと巨大であることに気付きます。そもそも城域がやたらと大きいし、どうみても2万石程度のお城ではないですよね。同じ場所で長年歴史を刻み続けた相良家の実力は、石高などというものでは到底測れないということでしょうか。
Data
ランク 国史跡、100名城、百選、こんな城、熊本県2位
櫓(復元)、石垣、堀
創築:元久2(1205)年、相良長頼、改築:寛永16(1639)年、相良頼寛
相良氏(人吉藩、22000石)
人吉城はかつては人吉市役所の近くと説明できましたが、市役所は最近移転しています(ご注意ください)。人吉市に立てばおのずと人吉城の方向がわかるようになっていますので、まず迷うことはないでしょう。駐車場も完備しています。ただ公園整備が進んでいますので、駐車場の位置などは今後変更される可能性はあると思います。
100名城スタンプは、城内にある歴史観で押すことができます。


人吉城フォトギャラリー






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