土佐中村城
とさなかむらじょう

(高知県四万十市)
最終更新日:2014.4.15

地図

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<2014.4.15記>
かっこいいんだかかっこわるいんだかよくわからない天守の写真はずっと以前から見たことがあって、中学時代の四国旅行でも密かに訪ねようかと思っていたのではありますが、列車の都合でどうしても予定に取り込むことができなくて。今回が初の訪城となりました。
この土佐中村の主であった土佐一條家は関白の座につくほどの名族で、戦国時代までよく荘園領主としての地位を保ち続けたのですが、長宗我部元親の圧力を受け、土佐を追い出されてしまいます。相手が悪かったか。。。
しかし、ここでは現在もなお、土佐一條家の威光健在なのです。その証拠に、

「是より下車 徒歩にて登城のこと 幡多荘 一條家」

との高札が駐車場に立っています。その威光にひれ伏しながら、雨そぼ降る中村城内を散策したのでありました。
Data
ランク 「高知県4位」
石垣、土塁、堀
創築:15世紀頃、一條氏 改築:慶長18(1613)年、山内政豊
一條氏、山内氏
土佐中村城は複合的なお城です。現在の為松公園の真ん中に位置する「為松城」は、一條氏の家臣となった為松氏が築いたものとされ、これが土佐中村城の中核と言ってもよさそうなのですが、「城をやる」では為松城と土佐中村城を別物と捉え、土佐中村城を一條氏〜山内氏のお城として解釈しています。
土佐一條氏は藤原氏の中核をなす一族で、応仁の乱の前後に関白の職にあったほどの名族ですが、応仁の乱を避けて自領の幡多荘へと疎開します。幡多荘のあった場所がすなわち中村で、一條氏は土佐国司兼荘園領主という立場で戦国大名化した、極めて特異な氏族となります。そんな一條氏も長宗我部氏の圧力のもと豊後国に追放されたり、旧領回復を狙って長宗我部と戦ったりしていますが、最終的には長宗我部にたたかれて滅亡の憂き目を見ることになります。
時代は下がって関ヶ原の後、長宗我部の去った土佐には山内一豊がやってきます。中村には一豊の弟・康豊が入り、石垣などをこしらえて近世城郭らしい形を整えたもののようですが、元和の一国一城令で破壊され、石垣の多くも土中に埋もれました。昭和になって山中のそこここから石垣が出土しており、その一部は復元されて現在でも目にすることができます。ただお城自体は結構徹底的に破壊されたらしく、近代になって動物園などできたりしたものですからますます普通の公園となりました。最もお城らしさを感じさせてくれるのは、かつての土佐中村城の二の丸に当たると思われる場所に立つ模擬天守と、その周囲の土塁くらいでしょうか。





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