知覧城・知覧麓
ちらんじょう・ちらんふもと



所在地:鹿児島県南九州市知覧町永里
最終更新日:2019.10.15

   
<2017.10.26記>
知覧城はだだっ広いお城です。典型的な南九州の群郭式のお城として航空写真で示されるのは、決まってこの知覧城か、志布志城ですね。どちらも平成29(2017)年に続100名城入りしました。実際に知覧城を散策していると、他のお城より圧迫感を感じません。堀底道が車道と見まごうばかりに広くて大きいので、シラス台地特有の垂直壁が今にも崩れそうな感じで眼前に迫ってくるわけではないからでしょう。でもどっちの方が攻めにくくてやっかいなお城かといえば、スケールの大きい知覧城の方がやっかいに決まっています。お城は独立性の高い曲輪がぽこぽこと立ち上がる群郭式で、名称を持つ主な曲輪だけでも本丸、今城、蔵の城、弓場城、式部殿城、児城、東之拵、西之拵、南之拵、伊豆殿屋敷・・・と、相当数を数えます。
知覧城は平安時代に知覧氏が知行したところとして知られ、南北朝時代以降は島津氏の一族である佐多氏がほぼ一貫して知覧の地を支配しました。佐多氏の初代は島津氏4代目当主・忠宗の三男・忠光だそうですから、相当格式も高かったことでしょう。知覧の地は15世紀に一度伊集院氏のものとなりますが、島津氏が力で奪還し、以後そのまま明治まで佐多氏の支配が続いたそうです。地頭仮屋が置かれた知覧麓は武家屋敷街がよく残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。地頭仮屋は現在の知覧市街のほぼ中央、知覧役場前交差点の東南にある鹿児島地方検察庁知覧支部のあたりにありました。
知覧城は佐多氏によって断続的に拡張が続けられたことと思いますが、元和一国一城令によって廃城となりました。ただ実際には一国一城令前に火災によってほぼ全城が焼失しており、その時点で実質的には廃城となっていたものとされています。中心部分は発掘調査がなされており、調査後には公園として整備され、平成5(1993)年には国史跡に指定されています。

<2019.10.15記>
2018年の秋、早くも二度目の訪問を果たしました。二度目の知覧では知覧城だけではなく太平洋戦争関連の資料館や知覧麓の散策などで、昼食込みで数時間を過ごすことになりました。この日の知覧は目の覚めるような青空が広がっていて、知覧麓が誇る個人宅庭園群も楽しく見学することができました。昼食は武家屋敷街の東のはずれ近くにある高城庵にて頂きましたが、これが実に大当たりで、ご飯が美味しかったのはもちろんのこと、ここで頂く知覧茶の美味しいこと。おかげさまですっかり気分が良くなり、近くのお店で知覧茶と知覧焼きのカップなどを買い込んでしまいました。
肝心の知覧城ですが、断続的に修復工事が行われているようで、この時には重機やトラックが本丸直下まで入り込んでいました。もう工事も終わっているのでしょうか。
ランク 国史跡、続100名城、百選、こんな城、山城100、鹿児島県2位
土塁、堀
創築:平安時代末期、知覧氏
知覧氏、佐多氏、伊集院氏、佐多氏
アクセス   南九州市役所のある知覧市街(麓)から県道232号線を南下すると、やがて知覧城へと至る右折路が現れます。大きな看板が出ていますので、まず迷うことはないでしょう。駐車場も完備されていますし、中心部分は綺麗に公園化されていますので、快適に散策することができます。そのかわり周辺部については結構な密林ですが。
知覧城を見たら、折角なので麓(重要伝統的建造物群保存地区)も見ていきましょう。


知覧城・知覧麓フォトギャラリー





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