勝賀城
かつがじょう

(香川県高松市)
最終更新日:2017.2.5

地図

<2017.2.5記>
勝賀城に向かう道はいわゆる農道で、当然のこととして農業作業車が優先です。
私が訪ねた際には、さていよいよお城入口の農道か、というその場所に、作業用の軽トラックが停まっておりまして。避けようがないこの作業車に阻まれ、その先数キロある農道を歩いて行く気にもなれず、敢え無く登城を断念するに至りました。
この時の讃岐・伊予の城めぐりは、どうも登城できないお城が多かったような気がします。根性が足りなかったのかなあ。
Data
ランク 「香川県7位」
石垣、土塁、堀
創築:承久年間(1219〜1222)年、香西資村
香西氏
香西氏の本拠地です。香西氏はもともと讃岐守に叙任され讃岐に定着した讃岐藤原氏の子孫です。室町時代には天霧城の香川氏、雨滝城の安富氏らとともに「細川四天王」に数えられますが、その出自からすれば讃岐に割拠した国人領主層の中では最も高位に位置づけられるべき一族かもしれません。
香西氏は承久の乱で功績を上げた際、平時の佐料館と詰めの城の勝賀城を整備したとされていますが、承久年間にこんな山の上に城郭を構える必然性はあまりなさそうな気がしますので、勝賀城の築城年代はもっと後なのかもしれません。いずれにしても勝賀城は一貫して香西氏の本拠として使用され続けました。
香西氏は讃岐守護の細川氏、細川氏の実権を奪った三好氏、更には三好氏一族の十河氏との間を縫って、一族相克の時代もありながらなんとか生き残りますが、長曽我部元親に攻められて開城し、その直後に羽柴秀吉の四国征伐で再び開城します。この過程で香西氏はすっかり所領を失い、最後の当主・香西佳清は仙石秀久や生駒親正などの讃岐国主から扶持米を貰って余生を過ごしたもののようです。
勝賀城は、高松市の西側にひときわ目立つ山容を誇る勝賀山の山頂に位置します。主郭周辺は土塁と横堀によって複雑に構成されており、城内通路を特定するのも難しいほどなのだとか。





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