天霧城
あまぎりじょう



所在地:香川県仲多度郡多度津町奥白方
最終更新日:2020.5.21

香川県の名称の元になった香川氏のお城です。創築は正平19(1364)年といいますから、室町時代もまだ始まったばかりで、南北朝の合体もなされていなかった時期。香川氏はもともと相模国が発祥で、南北朝の動乱で挙げた功によって多度津の地を賜り、多度津に移ってきたもののようです。香川氏の本拠はもっと海に近くて山も低い多度津城だったようですが、戦国の動乱は多度津城での安穏な暮らしを許すことなく、次第に天険の要害・天霧城が事実上の本拠となっていったもののようです。香川氏はその後、長曽我部氏から養子を迎えて長曽我部氏に取り込まれ、長曽我部氏が土佐一国に押し込められたのを機に香川氏もまた土佐に移り、香川氏の多度津支配は終わりを告げることとなりました。天霧城もその時点で廃城となったものと考えられます。
天霧城は比高300m以上ある険しい山で、西麓には四国八十八ヶ所霊場の第71番・弥谷(いやだに)寺があります。登城にはこの弥谷寺からの遍路みちを辿るのが最も一般的なようですが、「犬返し」とも呼ばれる難所があって、登るのには相当体力を必要とするようです。山頂には部分的に石垣を伴う曲輪が連なり、堀切なども見られるそうです。
なお、「天霧城」には霧がお城を隠したといったような、比較的よく聞く伝承が残っているようですが、城内に兵糧がないことを敵軍に教えた尼が斬られた(尼斬=天霧)という言い伝えもあるのだとか。物騒な話ですが、伝承の時期が天霧城と呼ばれた時機とはかみ合わなそうなので、普通に霧がかかりやすい山だったということなのでしょう。

<2017.1.29記>
多度津町にいると、山腹を大きく削られた高い山がいやでも目に入ってきます。有名なのに大きく削られている山って、全国にちょいちょいありますね。滋賀県の伊吹山、埼玉県の武甲山・・・。天霧山もやっぱり石灰岩質なのでしょうか。これ以上削ると山の高さも大きく変わってしまいそうです。
天霧城は国史跡にも指定されており、おまけに遍路道も通っていますので、これ以上山肌が削られてしまうことはなさそうですが、それにしても痛々しい姿です。

<2020.5.21記>
2016年の香川訪問時には山を眺めだだけだった天霧城にオフ会で登る機会を頂いたので、喜んで参加してきました。こういう高い山は一人で登ると心が折れてしまいますので(大汗)、一緒に行って頂ける方がいらっしゃるのは有難い限りです。上の文章にも書いた「犬返し」、なるほど険しい坂ですね。てか、ほぼ道ないしつづら折りなのに直登に近いし(笑)。薮ではないこととロープがあるのと、滑落を心配しなければいけないほど足元が悪いわけではないことが救い、でしょうか。
険しい山の上にあるせいか、ふうふう登っていくといつの間にか曲輪に入れてしまうような感じでした。少なくとも弥谷寺からのルートをまっすぐ進んだ先には虎口らしい虎口は設けられていなかったみたいです(石垣はありましたが)。こちら側からの登城路は、犬返しの手前で山の西北側の山腹へと進む(井戸曲輪方面に進む)道が正規ルートなのかもしれません。そちらのルートはいったん主郭部分を通り過ぎて、主郭部分と外郭部分とを大きく分ける堀切へと繋がっています。堀切で180度転回して山の東側に回り込むと、このお城で最も大きな枡形虎口が現れます。この虎口が大手門でしょうから、天霧城への登城ルートはいったんこの大手門に集められるように作られていたのではないでしょうか。こちら側から進むと、その先にもいくつかの虎口が開いていて、最高所の主郭へと辿り着ける仕組みになっています。主郭部分の西北側斜面には石垣が貼られていたようで、相当崩れてはいるものの、かなり多くの地点で石垣が確認できました。このお城はどちらかというと西北側の斜面を意識しているようですので、大手登城口は弥谷寺側(地理的には西側ですが尾根筋で見ると東南側)ではなく、西北側に設けられていたのでしょう。大手門に通行を集中させていわゆる本城と外城とを明確に区分するという設計思想は総じて西国のお城に多い手法だと思うのですが、このお城もそうした類型に含まれると考えてよさそうです。
ところで、天霧城の石碑は主郭部分ではなく外郭部分の一段高くなっているところに設置されています。この周辺の石垣は他の場所よりも粒が小さくて、一段高い場所も方形に近い形に整形されているので、お城の施設というより何らかの宗教施設(神社とか寺とか)があった場所なのかもしれません。石碑は何かの折に崩れたのか倒れたのか、基礎部分もむき出しの無残な姿です。写真で見ると二つに折れている状態のものも見受けられるのですが、私が見た時には折れた部分が接着剤で繋げられ、背後の木にロープで括り付けられている状態でした。なんとも痛々しいお姿なので、早くちゃんとした形で修復されるといいなあと思いました。あ、でも国史跡だから碑の基礎部分を埋めるための穴も掘らない方がいいのか。そりゃそうだ。
外郭から先は尾根が二つに割れていますが、どちらの尾根にも段々に曲輪がつけられています。西側の尾根には行きましたが、東側の尾根には行きませんでした。砕石工事によって足元が大きく抉られているため私が怖気づいて先へ進むのを引き留めてしまったのですが、今思えばもったいなかったかな、と、ちょっと心残りになっています。
Data
ランク 国史跡、香川県6位
石垣、土塁、堀
創築:正平19(1364年)、香川景則
香川氏
弥谷(いやだに)寺をまず目指します。車なら八十八か所の案内標識が沢山ありますので、それに従います。弥谷寺の登り口に駐車場がありますので、そこから先は歩いて登ることになります。


天霧城フォトギャラリー






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