九戸城
くのへじょう



所在地:岩手県二戸市福岡城ノ内
最終更新日:2018.7.19

   
<2015.10.24記>
東北を周る際に、どうしても行きたかったお城です。東北では珍しい「織徳系城郭」であるということに加えて、何よりもまず九戸政実の故地として。
この場所で繰り広げられたであろう理不尽で残虐な戦いのことを完全に忘れ去ることはできませんが、その場所に立って当時戦った人たちの思いや、時代の流れというものに思いを馳せることにはそれなりの意味があるのではないかと思ったのです。
朝一番で訪ねた九戸城では、既に何組かの見学客が城内を思い思いに散策していました。なので特段の淋しさは感じなかったのですが、それでもやっぱりこの場所ではいろんな思いが沸き起こってきます。
このお城にはまだ何か、地下に封印された人々の思いみたいなものが残っているんじゃないでしょうか。
二戸にあるのに九戸城と呼ばれるのは、ここに長らく居住したのが南部氏一族の九戸氏だから。九戸氏が二戸を拝領した時期には諸説あり、創築年代として記載した明応年間というのは、中でも一番古い言い伝え。高橋克彦さんのベストセラー小説「天を衝く」では九戸政実が南部晴政から二戸を拝領して大々的な築城を行ったとしていますが、「天を衝く」を先に読んだせいかそっちの方がしっくりきます。
お城の構造は東北地方の中世拠点城郭の典型で、本丸、二の丸、松の丸などの各曲輪が堀で仕切られてそれぞれ極めて独立性の高い構造を呈している点が特徴となっています。また、周囲を断崖雪壁で囲まれているあたりもいかにも東北の城郭らしい占地と言えます。
恐らくは広大な面積を有していたであろう本丸の中に直線的な堀を穿ち、石垣を積んで枡形門を設けたことで、この「新」本丸の部分だけがいわゆる織豊系城郭となった点は注目に値します。この部分は九戸政実の乱の後、豊臣秀吉の命で蒲生氏郷が改修の手を加えた部分です。氏郷は修築後、これまた秀吉の命でお城を南部氏の本城として南部信直に与えています。二戸城には南部氏が盛岡城を築くまで居住し、南部氏が盛岡城に移転した後も寛永13(1636)年までは存続していたもののようです。
従って現在残る九戸城は、表面的には九戸政実と関係ありません。ただこの改修時には九戸で戦った人々の遺体を地下に封じ込めたまま工事が実施されたことが知られており、二の丸の発掘では多数の負傷した人骨が出土しています。九戸政実の乱は豊臣秀吉の天下統一の過程の中で最後に起きた乱であり一揆であるとされ、九戸政実は南部氏の跡目争いにも独立大名化の試みにも敗れ、破れかぶれで城に立て籠もった無思慮者の戦い・・・との評価が一般的でしたが、最近では「天を衝く」のように、中央による新時代への移行をよしとせず、地方分権の道を主張し、貫き続けた最後の抵抗、との捉え方も出てきており、個人的にはそれが正しいような気がしています。時代の流れには乗れません(敢えて乗りません)でしたが、九戸政実もまた戦国の世が生んだ一代の傑物だったのでしょう。

<2018.7.19記>
桜の花咲く季節に、改めて九戸城を訪ねてみました。続100名城指定に合わせるように「エントランス広場」がオープンし、それに伴って従前は車で乗り入れることができた二の丸から車が締め出されました。が、これは遺跡保護の観点からも、かつまた九戸城の迫力を心底から味わうためにも、とってもよい措置だったと思います。エントランス広場から見上げる九戸城は恐ろしく高く聳え立っていて、攻め落とそうなどいう気にはなりません。普通は。九戸城が開城に至ったのは、数万の軍勢に囲まれるという「普通でない」事態に直面したからだということを改めて感じずにはいられません。それほどまでに九戸城の切岸は高く険しく、今もなお来る人を拒み続けているような、圧倒的な力を保っています。
ランク 国史跡、続100名城、百選、岩手県2位
石垣、土塁、堀
創築:明応年間(1492〜1501)年、九戸光政 改築:天正19(1591)年、蒲生氏郷
九戸氏、南部氏
アクセス 県道274号線(鹿角街道)から、盛岡家庭裁判所二戸支部を目指します。隣接するプレハブ施設が九戸城のエントランス広場で、駐車場も併設されています。続100名城スタンプもエントランス広場の施設内で押すことができます。


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