胆沢城
いさわじょう

(岩手県奥州市)
最終更新日:2017.3.20

地図

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<2017.3.20記>
胆沢城のある胆沢のことを、私はずっと「いざわ」だと思っていました。学校の授業でも「いざわ」だったような気がするのですが、どう言い訳しようと現在の地名(奥州市胆沢区)も「いさわ」なので、「いさわ」が正しいんですよね。濁るか濁らないかというのは、地元の方にとっては特に重要な問題だと思いますので、なるべく正しく表記しなければと思っています。それにしても日本語って、難しいものです。
胆沢城は礎石建造物の基礎が高くないせいか、現地に立つと案外平面的に見えます。正方形の平面を持つ城郭の全貌を現地で味わうのはなかなか難しいものなのだと改めて感じました。胆沢城を胆沢城らしく感じるには、実は航空写真を見るのが一番よいのかもしれません。
Data
ランク -
建物跡、築地跡、溝跡
創築:延暦21(802)年、坂上田村麻呂
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。蝦夷のアテルイの反乱と、それを鎮めた坂上田村麻呂とワンセットで歴史の教科書に登場する存在です。胆沢城は蝦夷支配を目的とした朝廷の前線城郭で、征夷大将軍の坂上田村麻呂によって築かれました。胆沢城の北にも紫波城徳丹城が築かれるのですが、紫波城は水害により短命に終わり、徳丹城は規模が小さいため、胆沢城が事実上の最前線であるという位置づけに変わりはなく、長く胆沢に鎮守府が置かれることとなりました。
胆沢の鎮守府がいつまでその実効性を保っていたかはわかりませんが、11世紀の半ばに勃発した前九年の役では、衣川に拠点を構えた安倍氏が奥州六郡を纏めて朝廷を圧する勢力を持っていたわけで、それまでには胆沢城の存在が形骸化していたことは間違いありません。
胆沢城は約90m四方の政庁部分を、前後二十の溝を持つ築地塀で正方形に囲む、典型的な古代城柵です。早くから発掘調査が行われ、大正年間には国の史跡に指定されました。





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