牛久城
うしくじょう

(茨城県牛久市)
最終更新日:2014.12.20

地図

<2014.12.21記>
牛久城を訪ねるに当たって、オフ会の主催者さんからひとつの課題が提示されました。
「主郭は、どっちだと思いますか?」
行ってみると、なるほど。奥から2番目の曲輪は面積も広く、主郭にふさわしいようにも見えます。で、そのあとに訪ねた一番奥の郭を見ると、土橋を駆け上がって直角に曲がる虎口の構造といい、逃げ場のない構えといい、こちらが主郭にふさわしいようにも見えます。その場での結論は奥の曲輪に軍配が上がりましたが、実際にどう使われていたのかをこの目で見られない以上、どう考えることも可能なわけで、そんなあたりも山城歩きの醍醐味だよね・・・と和やかに話を終えたのでありました。
Data
ランク 茨城県6位
土塁、堀
創築:不明、岡見氏
岡見氏、由良氏
牛久城はこの地に勢力を張った岡見氏の本城でした。岡見氏は小田城の小田氏の一族として小田氏と行動を共にしていましたが、小田氏が没落するにつれ独立色を強め、元亀年間には佐竹氏の後押しの元で勢力を伸ばした多賀谷城の多賀谷氏に対し、後北条氏に後押しを得て牛久番衆とともにこれに当たるという、いわば後北条氏の最前線としての役割を担いました。勢い牛久近辺は軍事的緊張が高まることとなり、現在の堅固な牛久城も、牛久番衆が在番した場所と思しき東林寺城も、この頃に整備されたと考えるのが自然ではなかろうかと思います。
岡見氏は小田原の役で後北条氏と運命を共にし、その後に入ってくるのが太田金山城の由良国繁です。国繁もまた小田原城に籠っていたのですが、いろんな工作が功を奏し、ここ牛久で5000石くらいを貰っていたようです。その後も暫くは7000石ほどの旗本として牛久城に在城しますが、由良忠繁の代になって1000石程度に減らされ、この時(元和7(1621)年)に廃城になったと考えられています。ちなみに由良氏はその後も高家として脈々とその血統を保ち、明治になって華族となって「新田」を名乗るんですね。これはこれでなかなか華麗なる一族といってよいのかも。
お城は台地先端から連郭式に曲輪を連ねていますが、各曲輪は比較的独立色が強いのが特徴となっています。台地と城域を仕切る堀と土塁は規模壮大で、首都圏にこれほどの規模の遺構が残ったことに驚きを禁じ得ません。





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