高部城(高部館)
たかぶじょう(たかぶたて)



所在地:茨城県常陸大宮市高部
最終更新日:2017.8.20

   
<2017.8.20記>
「高部城がいいですよ」というお城仲間のお勧めに従い、ちょっと遠かったのですが茨城の城めぐりの行程に高部城を取り込んでみました。「低いですよ」との言を信じて現地に立ったのですが、目の前に聳えるのは急峻な山・・・いや、確かにそれほどの高低差はない(比高130mくらい)のですが、傾斜が急なんです。この山。思わずめまいがしましたが、折角ここまで来たことだし、と気を取り直し、よちよちと登ることにしました。
で、登ってみると(確かに険しかったのですが)、思ったより早く遺構に出くわすので、そこから先は疲れを忘れて進むことができます。なるほど。先人が「低いですよ」と言ったのはそういうことなのか。と納得。お城好きなら、遺構を見た瞬間から疲れを忘れて突き進みますからね(笑)。
このお城は、奥に進めば進むほど「おお」とか「ほう」とかの独り言が増えるお城です。圧巻はお城の最先端にある二重三日月堀。上段と下段の二段に亘って、半円形の堀が綺麗に巡らされています。曲輪の先端にある曲線堀を三日月堀というのかどうかには異論があるかと思いますが、この堀を眼前にすると、二重三日月堀と表現するしかないほど特徴的な堀です。高低差があるので「比高二重三日月堀」と言ってもよいんではないですかね(笑)。二重三日月堀の周辺には横堀と竪堀とが複雑に入り組んでいて、これに折れをつけたら杉山城(埼玉県)にも匹敵する縄張になるのではないでしょうか。関東の土の名城を目にすればするほど、杉山城が決して突然変異的なお城ではないような気がしてきます。
高部城は、地元では高部館(たかぶたて)と呼ばれています。「たかべ」ではなく「たかぶ」です。高部城に拠った高部氏も佐竹氏の一族で、佐竹宗家第7代の佐竹義胤の五男・景義が「高部五郎」を称したことに始まるようです。佐竹宗家第16代の佐竹義篤が烏山の那須氏に備えた番衆として「初番として野口、東野、高部、小舟の者共」を指定した(佐竹義篤書状)ことから、高部城が佐竹氏の重点支配網のひとつに組み込まれていたのは間違いないのですが、その前に勃発した山入の乱で、高部城は山入氏によって陥落しているとの話もあり、高部城を守っていた高部氏に一貫性があるのかどうかまでは確認できていません。いずれにしても高部城は常陸と下野との境にあって、国境防衛の要の城として相当程度の手が入れ続けられたものなのでしょう。そう考えればこのお城の高度な縄張りも納得感があります。
ランク -
土塁、堀
創築:14世紀頃、高部景義
高部氏
アクセス 県道29号線を東進、常陸大宮市美和総合支所を過ぎて200mほど進んだところで、県道32号線へと左折。左折してすぐ左側に、「高部館入口」の白い標柱が立っています。眼前に見える山が高部館のある山です(Google Mapでは違う山を高部館としていますが、現地の標柱が正しいです)。
登りはじめてすぐ右に折れる山道が正しい登城路です。左の道を進むとお城の裏側にいきなり出てしまいますので、感動が薄くなります。


高部城フォトギャラリー





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