多賀谷城
たがやじょう

(茨城県下妻市)
最終更新日:2012.2.18

地図

<2012.2.18記>
茨城のお城を電車で回ったこの日は、とにかく終日、雨。多賀谷城(下妻城)は駅からほど近いものの、それでも強まる雨足の中、足元はどんどん冷たくなり・・・
また更に気持ちを寒々しくさせたのは、多賀谷城跡のあっけなさ。写真で見ると土塁のように見えるこの石碑の土台は、単なる築山です。この場所に本丸があったことだけは間違いないらしいのですが、かつて沼沢に囲まれていた多賀谷城は、下妻駅前の住宅街の中にすっかり埋もれてしまい、跡形もありません。
恐らく細かい高低差や細い道路を辿ってみれば、かつてのお城の面影が少しずつ見えてくるのでしょうけれども、何しろこの日は、雨。とことこ歩き回る気力もなく、さりとて電車がすぐ来るわけでもなく、私はとぼとぼと次の目的地である大宝城へと足を進めたのでありました。
Data
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創築:康正元(1455)年、多賀谷家植
多賀谷氏
もともとはこの地域の多賀谷荘の地頭であった一族が結城氏に仕えて多賀谷を名乗ったのが、多賀谷氏の始まりのようです。結城氏の家臣として、というより結城氏そのものをたびたび脅かすほどの実力者として、一時は20万石に届くかというような権勢を誇った多賀谷氏の本城がこのお城です。多賀谷氏は限りなく独立大名に近い立場で行動し、小田原の役にも自ら参陣し、豊臣秀吉から直接所領を安堵されますが、どういうわけか結城氏の配下に組み込まれました。那須氏の被官でありながら限りなく独立大名に近い動きをした大関氏や大田原氏が独立大名として所領を安堵されたのに対し、多賀谷氏が独立を認められなかったのはどうしたことだったのでしょう。結城氏は豊臣秀吉の養子であり、徳川家康の実子であるという極めて特異な経歴を持つ秀康という人物を養子に迎えますので、何かしら結城氏に対して特別な配慮があったのでしょうか。ちなみに秀康が結城家に養子に入るのは、小田原の役と同じ年、すなわち小田原の役が終わった直後の天正18(1590)年のことです。
いずれにしても多賀谷氏は、その後の独立獲得運動が全て裏目に出て、関ヶ原でも佐竹と組んで西軍に属したと見なされる等、ことごとく運に見放されます。最終的には結城家の越前移封に伴って、結城家の家臣(もともとそうでしたが)として越前に向かい、多賀谷氏は多賀谷の地を離れた模様です。
多賀谷城は沼沢に囲まれた低湿地に、島のように浮かぶ曲輪を連ねた、難攻不落のお城だったようです。北関東には忍城や岩槻城、騎西城など、沼に囲まれたお城が結構あって、ひとつの特徴になっているような気がします。が、どのお城にも共通して言えることですが、周囲の沼を失ってしまうと、宅地化という大きな波が押し寄せて、ひとたまりもなくあとかたもなく城跡が失われてしまいます。このお城も例外ではなく、かつてのお城の面影を探すのはとても難しいお城となりました。





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