関城
せきじょう

(茨城県筑西市)
最終更新日:2013.7.28

地図

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<2013.7.28記>
国指定史跡・関城の名は東日本版のロードマップにもしっかり記されているため、免許を取り立ての頃からずーっと気になるお城でした。が、肝心のお城となると、そこらのお城の本では一覧にすら出てこないため、長らく「?」となっていたお城でもあります。史跡指定を受けたのは、近隣の大宝城と同じく、南朝方のお城として機能した歴史によるものみたいです。
そんないきさつもあって、現地には全く期待を抱かずに訪ねたのですが、意外な場所・・・たとえば民家の庭先だとか道路脇だとか・・・にお城の名残らしきものが見え隠れしていて、案外面白い城跡になっています。「抜け穴」みたいなものもあって、伝説の域を出ないとはいえ、かつて華々しく戦ったこのお城をほんのちょっとだけ彩っています。
駐車場も完備されました。訪問している間中、停まっていたのは私の車一台限りではありましたが。。。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:鎌倉時代、関朝康
関氏
関城の歴史は古く、鎌倉時代の初めには結城氏の一族であった関朝康によってこの地に館が築かれたもののようです。
このお城が最も脚光を浴びるのは南北朝時代。南朝方となった関市は北畠氏と組んでこのお城に籠城し、同じ南朝方の大宝城と連携しながら北朝方の高師冬の軍勢をよくしのいでいたようです。が、多勢に無勢、大宝城との連携を断たれた関城は孤立します。それでも持ちこたえた関城に対し、攻城方は「穴掘り」による本丸攻撃を企てますが、これは未遂に終わります(この時の坑道入口と呼ばれる洞穴が近年発見されました)。南朝方として旗を立ててから3年余の年月を経た1343年、時の当主・関宗祐と関宗政父子は討死を遂げ、以後、関城は歴史の舞台から姿を消しました。
現在の関城は、台地の突端の本丸跡と思しき場所に石碑が立っているほか、民家の庭や境目、道路の両脇など至る場所に土塁や堀の残欠を見ることができます。ご興味のある方はフォトギャラリーをご覧ください。





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