逆井城
さかさいじょう

(茨城県坂東市)
最終更新日:2012.5.2

地図

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<2012.5.2記>
「いいお城だよ」というお城仲間からの評判を聞きながら、意外な遠さがアダになって、なかなか訪ねる機会がなかったお城です。ある年、たまたまゴルフで野田市を訪れた際、野田からならばそれほど遠くないことにふと気付き、ゴルフ帰りに車を飛ばして、暗くなる前に逆井城へと滑り込みました。ところが雨が降ってくるわ、カメラにメモリが入っていないわで、何しに来たのかよくわからなくなり、情けなくなって帰路についたのでありました。とほほ。
その後、お城めぐりコミュの「国府台オフ」の際、逆井城に行ってみたいと考えている方が案外多いということに気づき、国府台城から逆井城までをぐるっと回るオフ会をセッティングし、10人乗りのレンタカーを繰り出して、総勢15人で堂々と再訪を果たしました。再訪の際には、これまた前々から気になっていた、城内のお蕎麦屋さんをも初体験。わいわいがやがやと、楽しくお城めぐりができました。天候にも恵まれ、よい写真も沢山撮れました。フォトギャラリーに収められている写真は、この時に撮影されたものです。
Data
ランク 「こんな城」
天守?(模擬)、櫓(模擬)、門(模擬)、塀(模擬)、土塁、堀
創築:享徳5(1456)年、逆井常宗 改築:天正5(1577)年、北条氏繁
逆井氏、後北条氏
逆井の地にはもともと飯沼城というお城があり、小山氏の一族である逆井氏が居住していたもののようです。飯沼城が築かれたのが享徳5(1456)年頃で、その後100年くらいは逆井氏の支配下にあったことで間違いないでしょう。天文5(1536)年には北条氏康の命を受けた大道寺氏の攻略を受けて時の城主・逆井常繁が討死し、その妻・智御前の入水悲話も伝えられています。ただ、天文5年というと北条氏康はまだ家督すら譲られていませんでしたから、大道寺氏に逆井城攻めを指示すること自体に無理があります。天文5年は、単純に天正5(1577)年の間違いでしょう。天正5年には、玉縄城主であった北条氏繁が玉縄から技術者を派遣し、逆井の地に築城したことが知られていますので、飯沼城の落城後、すぐに逆井城の普請が始まったとすればつじつまが合います。築城から13年後の天正18(1590)年には、小田原の役によって後北条氏が没落し、逆井城もいつの間にやら歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
さて、逆井氏の飯沼城は、現在の逆井城と同じ場所にあったことが昭和50年代の発掘によって明らかになっています。飯沼城の場所は現在の逆井城の本丸のあたりだったようで、後北条氏は堀を掘り直し、城域を拡張して現在見る姿に改変したもののようです。直線的かつ直角の折れを伴う堀を多用した築城法は、他の後北条氏のお城でもよく見られる手法であり、後北条氏による築城術の最終形と言ってもよい姿を今に伝えています。
現在の逆井城には模擬の櫓(天守?)や塀などが復元されていますが、これらは玉縄から技術者が派遣されたという記録と、玉縄城の修築の際に、塀などの仕様を細かく記した書面が残されていることとを重ね合わせて、玉縄城の塀を逆井城で「復元」したものです。そういう意味では、可能な限り戦国時代の城郭の姿を再現しようと試みたということであり、大変貴重な復元事例ということができると思います。他にも、関宿城の移築城門や、お城ごと土取りで壊滅した堀之内大台城の復元御殿、古河城の礎石など、関東各地の城郭の博物館のような存在でもあり、更には前述の智御前の悲話を秘めた「鐘掘り池」という大井戸も残されているなど、見どころの多いお城です。城内にあるお蕎麦屋さんのお蕎麦もおいしいので、もぜひお立ち寄り下さい。





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