逆井城
さかさいじょう



所在地:茨城県坂東市逆井町
最終更新日:2022.3.3

   
<2012.5.2記>
「いいお城だよ」というお城仲間からの評判を聞きながらも、意外な遠さがアダになって、なかなか訪ねる機会がなかったお城です。ある年、たまたまゴルフで野田市を訪れた際、野田からならばそれほど遠くないことにふと気付き、ゴルフ帰りに車を飛ばして、暗くなる前に逆井城へと滑り込みました。ところが雨が降ってくるわ、カメラにメモリが入っていないわで、何しに来たのかよくわからなくなり、情けなくなって帰路についたのでありました。とほほ。
その後、お城めぐりコミュの「国府台オフ」の際、逆井城に行ってみたいと考えている方が案外多いということがわかり、国府台城から逆井城までをぐるっと回るオフ会をセッティングし、10人乗りのレンタカーを繰り出して、総勢15人で堂々と再訪を果たしました。再訪の際には、これまた前々から気になっていた、城内のお蕎麦屋さんをも初体験。わいわいがやがやと、楽しくお城めぐりができました。天候にも恵まれ、よい写真も沢山撮れました。
逆井の地にはもともと飯沼城というお城があり、小山氏の一族である逆井氏が居住していたそうです。飯沼城が築かれたのが享徳5(1456)年頃で、その後100年くらいは逆井氏の支配下にあったということで間違いないでしょう。天文5(1536)年には北条氏康の命を受けた大道寺氏の攻略を受けて時の城主・逆井常繁が討死し、その妻・智御前の入水悲話も伝えられています。ただ、天文5年というと北条氏康はまだ家督すら譲られていませんでしたから、大道寺氏に逆井城攻めを指示すること自体に無理があります。天文5年は、単純に天正5(1577)年の間違いでしょう。天正5年には、玉縄城主であった北条氏繁が玉縄から技術者を派遣し、逆井の地に築城したことが知られていますので、飯沼城の落城後、すぐに逆井城の普請が始まったとすればつじつまが合います。築城から13年後の天正18(1590)年には、小田原の役によって後北条氏が没落し、逆井城もいつの間にやら歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
さて、逆井氏の飯沼城は、現在の逆井城と同じ場所にあったことが昭和50年代の発掘によって明らかになっています。飯沼城の場所は現在の逆井城の本丸のあたりだったようで、後北条氏は堀を掘り直し、城域を拡張して現在見る姿に改変したようです。直線的かつ直角の折れを伴う堀を多用した築城法は、他の後北条氏のお城でもよく見られる手法であり、後北条氏による築城術の完成形と言ってもよい姿を今に伝えています。
現在の逆井城には模擬の櫓(天守?)や塀などが復元されていますが、これらは玉縄から技術者が派遣されたという記録と、玉縄城の修築の際に、塀などの仕様を細かく記した書面が残されていることとを重ね合わせて、玉縄城の塀を逆井城で「復元」したものです。そういう意味では、可能な限り戦国時代の城郭の姿を再現しようと試みたということであり、大変貴重な復元事例ということができると思います。他にも、関宿城の移築城門や、お城まるごと土取りで壊滅した堀之内大台城の復元御殿、古河城の礎石など、関東各地の城郭の博物館のような存在でもあり、更には前述の智御前の悲話を秘めた「鐘掘り池」という大井戸も残されているなど、見どころの多いお城です。城内にあるお蕎麦屋さんのお蕎麦もおいしいので、ぜひお立ち寄り下さい。

<2022.3.3記>
なんのかんのと10年ぶりくらいの再訪となった逆井城。傷みが進みやすい木造復元建築物群ですが、井楼の数がひとつ減ったかなということを除けば、概ね10年前と変わらぬ姿を保っていました。ただ城内のお蕎麦屋さんはなくなってしまったんですね。休憩施設としてテーブルと椅子だけは使えましたのでお弁当タイムに使わせて頂きましたが、昔の姿を知っている者にはちょっと寂しい風景でした。お蕎麦、食べたかったなあ。何回か来ている逆井城ですが、この時初めてあの天守風の櫓に入れることを知りました。しかもこの建物、高欄を歩けるんですね!勝手に「ちゃちな建物」だと思い込んでいた筆者が恥ずかしいです。いやいや、知らないことってまだまだあるもんなんですね。
この日は関宿城から移動してきたので、逆井城内にある関宿城の移築城門がこの日見た三つ目の「関宿城の建物」となりました。また、以前に訪ねた際には堀之内大台城も未訪問だったのですが、こちらも何ヶ月か前に堀之内大台城(の跡の学校)を訪ねていたので、今までになく感慨深いものがありました。ひとつのところにあちこちのお城の建物が集まっているのも賛否あろうかとは思いますが、一度にいろいろな感慨に浸れるという意味では悪くないのかもしれませんね。
逆井城が綺麗になっているのは実は二の丸のあたりで、本丸は最低限の整備に留めています。現状を見る限りはあまり平たく整地されていたわけではなかったみたいですね。単一の空間としてはちょっと広すぎるので、もしかしたら段差による区画が設けられていたのかもしれません。本丸を巡る広くて深い堀とは別に、二の丸に向けて角馬出のような区画を設けているのもちょっと不思議。ここだけ堀も狭いし浅いし、そもそもお城に由来する構造物なのか・・・馬出が守るべき側には「鐘掘り池」がぽっかりと口を開けているのも妙な感じ。逆井城には普通の縄張論では解ききれない不思議な謎がいっぱい隠れているような気がします。そもそもかつては後北条氏のお城に特徴的だとされていた「比高二重土塁」だって、逆井城はまさにその典型例とされているのですが、その利用方法や目的だってはっきりとはわからないですし。立派に残る逆井城の遺構に感動しつつも、行く度に謎が増えるお城でもあります。
ランク 「こんな城」
天守?(模擬)、櫓(模擬)、門(模擬)、塀(模擬)、土塁、堀
創築:享徳5(1456)年、逆井常宗 改築:天正5(1577)年、北条氏繁
逆井氏、後北条氏
アクセス 逆井城そのものがランドマークです。カーナビなどでも逆井城でナビ設定ができます。言い換えれば最寄りのランドマークがなくて、道案内が非常に困難なお城とも言えます。。。現地は公園としてきっちり整備されています。駐車場も完備です。


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