小田城
おだじょう

(茨城県つくば市)
最終更新日:2014.5.10

地図

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<2011.9.20記>
このお城を初めて訪れた日のこと。この日は朝から激しい雨が降り、午後にはその雨がぱったりと止んで青空が広がるという、とっても不思議なお天気でした。そんな中、このお城に近づいた瞬間、猛烈な風がお城の周りに吹き付けて、一時は立っていられないほどでした。
「近寄るな」
むしろまるでそう言われているかのような、猛烈な歓迎ぶり?でした。
ただその後、このお城には何回か足を運んでいますが、あんな風で迎えられたのはただ一度、初めて訪ねた時だけでした。あの風はなんだったのでしょう。それから何年もたった今でも時々、あの時の風と、あの時の風景を思い出すことがあります。ちょこっとだけ苦い、小田城の思い出。

<2014.1.2記>
初めてこのお城を訪ねてから、1年に1回くらいの頻度で何度も訪れているのですが、いくたびに風景が変わっていきます。田園の中に崩れかかった土塁・・・という古城の風景は既になく、本丸には高々と土塁が積まれ、田んぼの中のあぜ道で辛うじて辿れた出曲輪は、端正な角馬出しへと姿を変えました。これからどんどん整備が進み、どんどん立派な姿を取り戻してゆくのでしょう。そしてそれは同時に、来るものを拒むというお城本来の機能に近づいてゆくことを示しているようで、次第次第に小田城が近寄りがたい存在になってゆくような気がしてなりません。
Data
ランク 「茨城県5位」
土塁、堀
創築:文治元(1185)年、八田知家
小田氏
本丸の上を対角線状に鉄道に横切られるという衝撃的な航空写真を、YahooやGoogleの地図で見ることができます。この鉄道も廃線となり、今やサイクリングロードとなって、さすがに本丸は迂回させたものの、それでもやっぱり城内を真っ二つに断ち割っている状況に変わりはありません。
このお城の主は小田氏であり、小田氏の祖先である八田知家が源頼朝から常陸国守護職に任命され、この地に居館を構えたのが始まりと伝えられています。その後、このお城は延々と小田氏の城であり続け、南北朝時代には南朝方の拠点として北畠親房を迎え、親房がここで「神皇正統記」を書き上げたとのことであり、そんないきさつもあってか、早くから国史跡にも指定されています。
小田氏がこの地を退去するのは戦国も末期に入ってからのこと。小田家15代目当主・小田氏治が一代のうちに何度も何度も小田城を奪われては取り返すという日々を重ね、最終的には小田城への復帰叶わず結城秀康の客将として生涯を終えることとなり、鎌倉以来の名家・小田氏の大名としての道は閉ざされます。同時にまた小田城も、歴史上の舞台から姿を消すことになります。このあたりの顛末は書けば書いたできっと面白いのでしょうけれども、あまりにも長くなりそうなので割愛します。
お城自体がいつどんな形で拡張されていったのかは定かではありませんが、正方形の館から始まったお城が、その正方形の区画ごと拡張され、更に周囲にいくつもの曲輪を従えて、次第次第に巨大化していったことは間違いないところです。お城は延々と発掘調査が続けられており、障子堀や築城以来不変であった主軸線の道路等、続々と新発見がなされています。
歪んだあぜ道に囲まれた田んぼが、発掘してみたら実は綺麗な長方形の馬出であったことがわかったりして、旧状に忠実に復元されたりしていますので、現在のように田んぼに囲まれた古城・・・という風景が見られるのもあとわずか、ということになりそうです。いやそれでよいんですけれども、心のとこかで、今のままがいいんだけどな・・と思う自分がいたりして、復元作業を戸惑いながら見つめています。





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