額田城
ぬかだじょう



所在地:茨城県那珂市
最終更新日:2017.5.27

   
<2017.5.27記>
額田城は大きなお城です。茨城県のお城は総じてみんな規模が大きくて、例えば土浦城と小田城の間に存在する藤沢城にも無駄に大きい外郭がありますし、行方の小高城や美浦の木原城などもとにかくでかい!そんなバケモノたちに負けず劣らず、額田城も十分に大きいです。普通に見学しているのは主郭とその周囲を囲む二郭群までですが、このお城はその外側に更に二重の外郭を持っています。でも散策していると、二郭群までで存分にお腹いっぱいになります。特に堀底を歩かされていると視界が遮られるため圧迫感がすごくて、できれば早めに外に出たいな、という気持ちになってきます。こんな感覚、どこかで感じたなと思ったら、同じ茨城県内の小幡城で感じた圧迫感に近いんですね。ある友人が、「小幡城は常陸牛のサーロインステーキ、額田城はひたちポークのとんかつみたいなもの」という面白いたとえ話をしていましたが、なるほど納得。実は小幡城と額田城とをセットにしたオフ会をやろうかと考えていたのですが、この二つのお城を同日に見て回ったら胸やけすること間違いなし、でしょう(笑)。
額田城は佐竹氏五代目当主・義重の次男、義直が鎌倉時代の建長年間に佐竹宗家から分家し、額田に居を構えたことから始まります。額田佐竹氏は室町時代の応永14(1407)年に、佐竹宗家に関東管領家から養子を迎え入れようとした際に宗家に異を唱えて以来、佐竹宗家との間がしっくりいかなくなったようで、ついに応永30(1423)年、額田佐竹氏は佐竹宗家によって滅ぼされてしまいます。額田城には佐竹氏重臣の小野崎氏から小野崎通重が派遣され、通重は江戸氏から養子・通栄を迎え、ここに第二次額田氏が誕生します。この額田氏、石神城にいた石神通長が佐竹氏に叛旗を翻した際にはこれを鎮圧していますが、石神氏と額田氏は境界争いでしばしば諍いを起こします。その仲裁には江戸氏が入ったようですが、仲裁がうまくいかず江戸氏が佐竹氏の不評を買ったのだとか。佐竹氏との友好関係にひびが入った江戸氏は次第に佐竹氏に追い詰められ、小田原の役の後になって江戸氏が佐竹氏に追われる遠因となりました。こういう大きな話は、概ねいつも境界線の争いから始まるんですね。額田城と石神城は、直線距離にしてわずか5kmあまりです。この両城がともに素晴らしい土塁と堀を持つ土の名城に仕上げられたのは、こうした境界線争いとも無縁ではないでしょう。ちなみに額田氏は小田原の役の後、佐竹氏による粛清の対象となって額田城を追われ、巡り巡って水戸徳川家の家臣に名を連ねることとなるそうです。額田城は額田氏が立ち去ったことで廃城となったのでしょう。
お城はほぼ方形の主郭の北側に二郭、三郭を配しつつ、全体として主郭を三方から二重、三重に囲む厳重な構造となっています。残存状況は良好で、東西、南北ほぼ1kmの領域に外郭の土塁・堀まで一部残されています。近世以前のお城、しかも城内に町が存在しているお城としては奇跡的な残存状況と言えるでしょう。那珂市の指定史跡として程よく整備がなされており、堀底で受ける圧迫感を除けば(笑)たいへん快適に散策することができるようになっています。
ランク 市史跡
土塁、堀
創築:建長年間(1249〜1256)、額田(佐竹)義直
額田(佐竹)氏、額田(小野崎=江戸)氏
アクセス 額田にある阿弥陀寺を目指します。阿弥陀寺の駐車場は山門の中にありますので車で入るのを一瞬ためらいますが、臆せず入っていけば大きな駐車場がありますので、有難く停めさせて頂きましょう。
阿弥陀寺には額田城の大きな案内看板があり、遊歩道へと抜ける道にも丁寧に案内板がつけられているので、迷わず城内(阿弥陀寺も城内ですが)に入ることができます。


額田城フォトギャラリー





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