長倉城、長倉陣屋
ながくらじょう、ながくらじんや


長倉城

長倉陣屋


所在地:茨城県常陸大宮市長倉
最終更新日:2017.8.19

   
<2017.8.19記>
長倉城のすぐ脇にある蒼泉寺の駐車場をお借りしたところ、庫裏の方からけたたましい鳴き声が。
「わんわんわんわん!!」
夕闇迫る閑静な山里に響き渡る、優秀な番犬くんの鳴き声に追い立てられながら、長倉城へと向かいます。既に林の中では写真撮影も覚束ないくらいの明るさになっていたので、早足で山頂へ。山全体に施された曲輪と切岸との連なりはなかなか見事なもの。ここは明るい時間帯に改めて訪れなければいけないお城だなと思いました。ただ、このお城の見どころであるはずの巨大竪堀は、どうやら薮に包まれてしまったようです。このあたり、お城の特徴を活かした効果的な整備がなされるとよいなあ、と思ってしまいました。
山を下りて、長倉城の看板のところを左に(登るときは右に)曲がると、長倉陣屋へと入ります。もっともこちら側から入ってしまうと、どこからが陣屋なのかがわからないまま、陣屋の中心部に足を踏み入れてしまうことになりますが。陣屋の見どころは中心部の南側にある櫓台と横堀なのですが、さすがにそのあたりでタイムアップ。足元が見えるうちに引き返すことにしました。
寺に戻ると、再び優秀な番犬くんが、
「わんわんわんわん!!」
そそくさと車に乗り込み、長倉城を後にしました。
さて、長倉城は佐竹氏から分かれた長倉氏が代々居住したお城です。長倉氏が佐竹氏から分かれたのは文保元(1317)年のことですから、相当に古い一族ということになります。長倉氏は佐竹宗家とはあまり仲がよくなかったようで、むしろ宗家と対立する山入家と親しく、また上杉禅秀の乱にも禅秀側についたりと、なかなかの曲者だったようです。長倉城と長倉氏が一躍脚光を浴びたのは、永享7(1435)年に足利持氏の討伐軍を迎え撃った時のことです。この合戦は俗に「長倉追罰記」と呼ばれる合戦記として記録され、これが当時の有力武士団の家紋を事細かに記してくれているというので、その方面での貴重な資料となっているのですが、この合戦で長倉城はなんと落城せずに持ちこたえ、長倉城と長倉遠江守(義成)はその名を全国に轟かせました。長倉氏はその後次第に佐竹宗家の支配下に取り込まれ、豊臣時代に入ってからは佐竹氏が実施した配置換えに従って、長倉から柿岡へと移っていきます。長倉城はこの段階で事実上その役割を終えたと考えてよいでしょう。
長倉陣屋は、その長倉城の山麓に築かれた陣屋です。陣屋としての成立は比較的新しく、天保9(1838)年に水戸藩主・徳川斉昭の命によって松平頼位が陣屋を築いたことに始まります。頼位はその後宍戸陣屋に移りますが、長倉陣屋は明治まで存続したそうです。
ランク 市史跡(長倉城)
土塁、堀
長倉城:文保元(1317)年、長倉(佐竹)義継
長倉陣屋:天保9(1838)年、松平頼位
長倉氏、松平氏
アクセス 
長倉城
国道123号線の長倉宿入口交差点を北に折れ、長倉の町並みを過ぎたら左に曲がって蒼泉寺を目指します。蒼泉寺の手前右側を見下ろす切岸の上が長倉陣屋。青泉寺と長倉陣屋の間に、長倉城へと登る道がつけられています。 

長倉陣屋





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