守谷城
もりやじょう

(茨城県守谷市)
最終更新日:2012.3.30

地図

<2012.3.30記>
息子の中学受験を控えた年のこと。その息子が通っている塾の「強化合宿」なる催しがここ、守谷市でありました。そのお迎えのため、守谷駅まで出向いたついでに、近隣の守谷城にも立ち寄りました。とはいうものの、守谷駅に特段の案内板があるわけでもなく、しばし方向音痴になりながら、ふらふらと彷徨った挙句に神社と小学校を見つけ、小学校の周囲に土塁状のものを見つけたところで、「ああ、城だ」とほっとして、谷を見て「ああ、堀だ」と感じて、上の写真にあるような「めくるめく空堀」に溜息をつき、この堀を平将門が築いたものと信じた江戸時代のお城マニアたちの心意気に想いを馳せたのでありました。そして、そうこうしているうちに、あっという間に時間が経過し、はやお迎えの時刻となったのでありました。
Data
ランク 「茨城県6位」
土塁、堀
創築:不明、一説に平将門 改築:永禄10(1567)年頃、相馬治胤
相馬氏、土岐氏(守谷藩、10000石)
守谷城の歴史は伝承上は古く、関東北部に数多く伝えられる「平将門の王城の地」のひとつとして知られています。実際に将門がここにいたかどうかはさておき、江戸時代末期の学者・赤松宗旦が記した「利根川図志」の中に「平将門旧址」というくだりがあり、その中で「相馬の偽都(将門の王城)の旧址尋て分入るに、先相馬小次郎師胤が城の跡ありて、今に乾壕枡形などの形昔のままに残れり。畠の中道を東へ廿町余り行けば、大壕曳橋などいふ処あり。平ノ台といふは最高き岡にて、ここぞ将門が住みし所なる。又めくるめく許りの深き塹を渡りて八幡廓に移る」とかなんとか書き残しています。その「めくるめく空堀」の今の姿が、上の写真の場所、のようです。折れが入っていて迷路のようになっている点でも、これはまさしく「めくるめく」空堀ですね。
守谷城は長く、下総相馬氏の本城として機能しました。下総相馬氏は千葉氏の一族で、ここから分かれて奥州にいった支族がやがて、相馬中村で大名として江戸時代を通じて存続します(千葉一族で唯一の大名、と言われています)。肝心の本家の方は、関宿の梁田氏と古河公方の足利義氏、それに勢力台頭著しい後北条氏とに挟まれて、誠に苦しい時代を過ごすことになります。当時の当主・相馬治胤は、足利義氏を守谷城に迎え入れ、かつ後北条氏と和睦することで家名存続を目指しますが、足利義氏は「守谷城は狭い」とか何とか言ってちっとも移らず、なし崩し的に後北条氏の支配下に置かれることとなった模様です。その後、小田原の役によって下総相馬氏は完全に歴史上から姿を消してしまいます。徳川家康の関東統治時においては、守谷城には土岐定政が入ります。定政は母方の菅沼氏を名乗っていた時代の方が長いのですが、晩年になって本来の氏である土岐(明智系)を名乗ります。これが江戸時代を通じて大名として存続し、沼田城で明治を迎えた土岐氏の流れということになります。
土岐氏はここから出羽上山に移動し、その後は守谷藩としてではなく、譜代大名の一族の分封や大藩の一部として組み込まれ、酒井氏を最後に17世紀の終わり頃にはもう使われなくなってしまいました。
お城は「めくるめく」平ノ台の部分の他、現在の守谷小学校が建つあたりの「城内」と呼ばれる広大な部分とに大別され、その両方をまとめて「守谷城」と呼んでいます。概ね、平ノ台のあたりがもともとの守谷城、「狭い」と言われて大拡張したのが「城内」と解釈できますが、「城内」はやたらと大きいので、後北条氏の駐屯地としての要素があったものかもしれません。平ノ台のあたりは遺構がよく残り、程良く整備されていますので、気持ちよくお城を散策することができます。





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