水戸城
みとじょう



所在地:茨城県水戸市三の丸
最終更新日:2023.10.1

   
<2012.3.17記>
ゴールデンウィークの頃だったかと思います。前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、暑いくらいの日差しが照りつける日となりました。水戸駅からもほど近い高台を、すぱすぱといくつかの堀で切り刻む姿は、この地域に多く見られる中世の土の城と、基本的にはそれほどの違いはありません。ただ、その規模の壮大なこと。二の丸と三の丸を仕切る空堀の美しいこと。本丸と二の丸とを仕切る堀の深いこと。ひとつひとつに、どうしても徳川御三家の格式と威厳を感じないわけにはいきません。本丸の土塁の上には今も当時の瓦が散らばっています。街の中に埋もれたようでありながら、水戸城はしっかりと、現在にまでその雄姿を伝えてくれています。

水戸城は、「水戸黄門」のおかげですっかり「天下の副将軍様」としての印象が強く染みついてしまった水戸徳川家のお城です。徳川家康の末子(十一男)である徳川頼房がこの地に封じられて後、幕末まで水戸徳川家の居城として使用されました。天守と呼ばれた建物はなく石垣もない点で質素と言われますが、土の城が主流の関東にあってはむしろこれがスタンダード。規模感でいったらこの地域の城郭としてはやはりなかなか立派なものだったと思います。ただ、天守の代わりに二の丸に建った御三階櫓は確かに質素で、古写真で見ると「うーん、天守・・・そもそも城郭建築っぽくないんだけど」と言いたくなるような造りです。それはそれで、先の戦争で焼け落ちたのはあまりに惜しく、実物を見てみたかったものだとつくづく思います。
水戸城を遡ると実に建久年間まで遡ることができます。すなわち鎌倉時代の幕開け、武家政権の夜明けとともに、この地には武家が居住します。最初にこの地に住まったのは、常陸大掾氏の一族・馬場資幹。それから延々と大掾氏の支配が続きますが、応永23(1416)年の上杉禅秀の乱に及んで、上杉方に与した大掾氏に代わり、幕府方についた江戸通房がこの地に入り、そのまま天正18(1590)年まで江戸氏の支配が続きます。長い歴史を持つ水戸城ですが、大掾氏が約220年、江戸氏が約160年続きますから、この地の支配者は長期に亘って代々世襲が続く傾向があるようです。天正18年の小田原の役で、水戸を含む常陸一円は佐竹氏のものとなりますが、慶長7(1602)年、関ヶ原の戦いの後処理で佐竹氏は秋田に去り、代わって徳川家康の五男・武田信吉、十男・徳川頼宜、十一男・徳川頼房と家康の息子が三人立て続けに城主となったところで、水戸藩25万石が確定します。そこからまたまた250年以上に亘って水戸徳川氏が世襲し、明治を迎えることとなりました。

<2021.2.16記>
ここ数年で水戸城の景観は大きく変わりました。もともと文教施設が立ち並ぶ二の丸、三の丸近辺は学校をどかして武家屋敷を建てたらそのまま復元できそうな雰囲気があったのですが、境界線を軒並み白壁に変えたことで、本当に城下町に迷い込んだような錯覚に陥ります。また、要所要所に門が復元され、地味ながら着実に復元の気運が高まっていました。そうした中、何と大手門が復元されることになり、2020年、ついに完成してしまいました。それにしても水戸市は思い切ったことをやったもんです。大手門のあった場所は城内メインルートのど真ん中に当たり(大手門なので当たり前ですが)、現代にあっては通行の支障となることも覚悟しなければなりません(だからこそ全国各地の門は壊されたり移されたりしているわけですから)。そんな中、旧位置に堂々と大手門を再建してしまった水戸市の懐の深さには感心させられます。復元に当たっては基盤部分の調査が行われ、瓦を用いた土塀(瓦塀)の基礎部分が出土しました。復元された門はその瓦塀を壊さぬように慎重な配慮がなされたばかりではなく、瓦塀が覗き込めるようにガラス窓を設けるといった粋な計らいも。この思い切りのよさは水戸と同様に大手門の復元計画を立ち上げている仙台城などにもきっと大いに活かされることでしょう。
大手門と一緒に櫓も再建されているのですが、残念なのはこの櫓が実に撮影しにくいこと。そのせいか、巷の写真を見ていても櫓の写真が極端に少ないような気がします。せっかくの復元なので、櫓から門までの雄姿を一枚の写真に収めたいものなのですが、そこまで求めるのはちょっと贅沢というものでしょうか。

<2023.10.1記>
2023年の2月、日本三大名園のうち偕楽園にはまだ行っていないことに気付き、いそいそ訪ねてみたものの梅はまだ遠く人影まばら(笑)
人混みを極力避けてきたという気質もあいまって、たとえば「偕楽園の梅!」みたいな季節モノの名所を、どんぴしゃのタイミングで見ることはほとんどないのですが、梅が咲く前の偕楽園は寒かったー(いろんな意味で)。
もちろん水戸城も訪ねてきました。前回までは未公開エリアだった二の丸角櫓にも立ち寄ってみましたが、内部公開期間ではなかったので外からだけの見学に。角櫓は文字通り角にある二重櫓に、ふたつの多聞櫓がL字型にくっついたような形になっています。この形の櫓は珍しいんじゃないですかね。現存・再建含め、どこかにあったかなあ。大手門も色合いが若干落ち着いてきました。あと数年もすれば更に風格が増してくるんじゃないでしょうか。
で、前から気になっていたのが、水戸城の「復元」門の数。何しろ水戸城の二の丸には学校などが立ち並んでいるのですが、そのそれぞれに立派な門が付けられています。武家屋敷っぽくて大いに結構なのですが、本来の水戸城を意識して建てられた門っていくつあるんだろう?というのが謎でして。一度、整理してみました。
まず、現存しているのが本丸に鎮座する薬医門。薬医門というのはあくまで門の形式であって、ここではなく城内のしかるべき位置にあった際には○○門という呼称が付けられていたはずなのですが、今となってはどこの門だかわからないのだそうです。また、建築年代も定かではなく、大雑把には水戸徳川家の前の時代、佐竹氏がいた頃の建物ではないのかと言われています。佐竹氏が水戸を去ったのは慶長7(1602)年。それ以前の建物だというのであればそれだけでも十分貴重な城郭建築ですよね。ちなみにあまりにも立派なので、本丸橋詰門(いわゆる本丸大手に相当)だったとの説が有力なのだそうです。これほどの建物が重要文化財の国指定を受けていないのは不思議極まりなく(現状は県指定有形文化財)、次に重文指定を受ける城郭建築が現れるとしたら、この薬医門は有力候補だと思っています。
2020年に復元されたのが大手門。交通の邪魔になりそうな原位置によくぞそのまま建てたものだと感心する文章を以前にも書きましたので割愛します。
たぶん一番新しいのが北柵御門。弘道館の北西の隅にあって、弘道館ではなく城内(三の丸)に入るための門でした。柵御門の名の通り柵のような姿をした門で、門柱の上に横木が二本差し込まれているのが特徴なのだとか。これは結構忠実に再現されているそうですが、入口を入るとすぐに土塁に阻まれて通行できないので(笑)普段は閉じられています。門を入って土塁に突き当たったら右に折れ、そこから180度左に回って城内に入る「食違虎口」だったそうですが、当時の通路が駐車場に持ってかれてしまったために通行不能となったのだとか。それでも土塁まで復元しちゃう意気込みには感服しますね。
二の丸と本丸の間の坂道の途中に復元されているのが柵町坂下門。もともとは坂の下にあったのですが、そこには復元できないので坂の途中に作ってしまったという、復元門の中では最も中途半端な門です。観光用の門?などと揶揄する書き込みもちらほら見られますが、いいじゃないですか。復元しようとした心意気に感謝したいと思います。
今回紹介できる最後の門が杉山門。こちらも道路の脇にあるので中途半端な位置への復元なのかと思いきや、これはどうやら原位置みたいです。もともとはお城の北側から登ってくる通路(杉山口)が直角に折れて、二の丸中央の通路へと合流するところに設けられた門なので、二の丸中央の通路からずれたところにあるのが正解。もともとは門の城内側に枡形空間が設けられた、ちょっと変形の内枡形だったようです。ふーむ。なんだかあちこちに門があるなあと思いましたが、それぞれちゃんと根拠を持って設けられているんですね(柵町坂下門はその立地がちょいと微妙ですが・・)。
立派な大手門が完成した水戸城は、これから先も十中八九は大手門の写真が紹介画像となることでしょう。他の門への注目度はますます下がる可能性がありますが、地味にきちんと復元されていますので、探訪の際にはこれらの門への散策もお忘れなくお願いします。
ランク 100名城、100選、茨城県6位
櫓(復元)、門(移築、復元)、土塁、堀
創築:建久年間(1190-1198)年、馬場資幹 改築:慶長14(1609)年、徳川頼房
大掾氏、江戸氏、佐竹氏、松平氏、徳川氏(水戸藩、250,000石)
アクセス 徒歩なら水戸駅北口から堀底の道をまっすぐ歩いて行けば、大手門にそのまま階段で上がれます。車の場合は弘道館の駐車場を活用するのが最も便利だと思います。


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