片野城
かたのじょう



所在地:茨城県石岡市
最終更新日:2017.5.28

   
<2017.5.28記>
常総の城めぐりをする中で、どうしても行きたいのにどうしてもぽつんと離れていてなかなか行かれないお城が片野城でした。意を決して無理やり訪ねてみたものの、行程の無理がたたって、到着はやはり日暮れ時を過ぎた頃。やむなく看板だけを撮影して、この日はすごすご引き下がりました。それにしてもこのお城も、茨城の代表的城郭に負けず劣らず、かなり大きなお城のようです。それもあって、間近に迫っているのに道に迷いました(正確には、城内にいるのに城内にいるという意識がなかったw)。
片野城は小田氏一族の八田氏によって文永年間に築かれたとされ、小田城の小田氏の勢力下にありました。それが遅くとも永禄7(1564)年には小田氏の手を離れ、佐竹氏の属城となりました。この時、佐竹氏の客将として、小田氏への抑えとして片野城を与えられたのが、太田資正。太田三楽斎としても有名なこの人物は太田氏の嫡流ながら、北条氏と誼を通じた息子の裏切りにあって居城の岩槻城を追われ、佐竹氏の下に身を寄せていた人物です。三楽斎はここで功を重ねることにより、いずれは旧地である岩槻の奪還を期していたと言われますが、死ぬまでその願いが叶うことはありませんでした。旧地回復を狙って小田原の役の際に小田原で豊臣秀吉に献策する機会を与えられながら、秀吉の歓心を買うに至らず夢破れたという悲哀話も伝えられていますが、少なくとも秀吉に献策する機会を得られる程度には才覚もあったということですよね。なんだか現代サラリーマンにも通じるような悲哀話です。
片野城は太田氏の後、石塚氏を経て滝川氏が入って片野藩が立藩されます、滝川氏は嗣子なく断絶。寛永2(1625)年をもって片野城は廃城となりました。
片野城の主郭は高い土塁と深い堀に囲まれ、南側の二郭(二郭の南側が案内看板のあるところ)との間は土橋で結ばれているとか。このあたり、まだ自分の目で見ていないので、規模感などについてはまた追記したいと思います。
ランク 市史跡
土塁、堀
創築:文永年間(1264〜1274)年、八田将監
八田氏、片野氏、太田氏、石塚氏、滝川氏(片野藩、20000石)
アクセス 車で行くと全く目印がありません。県道64号線を北上し、片野集落の中にある片野下宿バス停を過ぎたら右折。ひたすら道なりに登って、切通しに出たら正解。切通の右側にある神社が七代天神社。右側に片野城の案内看板があります。案内看板を右手に見ながら畑を歩いて突き抜けた先が主郭とのこと。ただしこの周辺、車を置くところがありません。七代天神社まで登る手前の左側に、車一台分くらいのスペースがありますが、長く駐車することは避けた方がよさそうです。





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