龍野城
たつのじょう



所在地:兵庫県たつの市龍野町上霞城
最終更新日:2022.5.30
<2011.7.29記>
姫路出張の折だったと思います。たまたま週末だったのでそのまま一泊させてもらい、その足で龍野を経て津山まで向かいました。何の下調べもない、いきあたりばったりの旅。「たしか『本龍野』に龍野城があったはず」との記憶を頼りに電車を降り、駅と川を挟んで対岸にあたる城下町まで、とことこ歩いて龍野城へと向かいました。いや、歩いていたはずが、いつの間にか走っていました。それだけ早く龍野城に辿り着きたかったのと、次の電車まであまり時間がなかったのとで。そうめん工場や醤油工場が並ぶ、風情のある城下町を疾走する、若きサラリーマン(笑)。どうしていつもこうせわしくなってしまうのでしょう。
現在、龍野城と呼ばれる場所の裏山も、龍野城の古城跡。この時はさすがにそこまで行くのは断念し、麓にある近世の龍野城だけで引き返しましたが、4月上旬のこと、ソメイヨシノこそちょっと早すぎたものの、八重桜が見事に花を咲かせていました。
古くは播磨の大大名、赤松氏一族の持ち城でしたが、豊臣政権下では福島正則や蜂須賀正勝など、なぜかそうそうたる武将が城主を務めています。関ヶ原の後、暫くは姫路藩に組み込まれていましたが、本多政朝が大多喜から移動して正式に龍野藩として独立します。この時にどうやら山の上から下へと城郭が大移動しているようです。本多氏、小笠原氏、京極氏と断続的に藩主が変わり、京極氏が丸亀に移転したことに伴って、万治元(1658)年にいったん廃城となり、この時点で城郭も破壊されたようです。ところが、寛文12年になって脇坂安政(時の老中・堀田正盛の次男)が龍野藩主として新たに赴任するにあたり、異例扱いで城郭の再建が許され、現在の龍野城が形作られることになりました。中世から一筋縄ではいかず、なかなか数奇な運命を辿ったお城でもあり、城下町を鉄道が貫かなかったこともあり、城下町の面影もろとも実によく風情を保ったお城ですが、名城の多い激戦区・兵庫県にあったのが災いしてか、本サイトで採用しているいかなるランキングでも圏外となっています。なんとも贅沢で勿体ない話です。

<2022.5.30記>
初めて龍野城を訪れてから、ざっくり20年近くが経過しました。同じ兵庫県内にあって、同じように麓に小さな白い模擬櫓を持ち、背後の山に戦国期の立派な山城を有するという有子山城・出石城と、龍野古城・龍野城。続100名城を選定するに際しても、さすがによく似た二つのお城を両方選ぶのは憚られたのか、龍野城はここでも選に漏れる結果となりました。ちなみに城下町の風情は、脇坂氏の居城であったという共通点を持つ愛媛県の大洲城とも似通っています。これだけの要素を擁しながらも選外となる龍野城。やっぱり運がないとしか言いようがないのでしょうか。
久々に訪れた龍野城でしたが、龍野城そのものには大きな変化が感じられません。そういう意味でも龍野城は既にこの形で完結していると言えそうです。あまりクローズアップされることもないのですが、山麓の主郭部には模擬御殿まで復元されています。この御殿、建てられたのは昭和54(1979)年のこと。最近でこそ名古屋城や熊本城をはじめとする御殿復元の事例もあり、金沢城などでも御殿復元計画が進んでいると聞きますが、昭和50年代のお城ブームはまだまだ天守偏重の時代。そんな時代に御殿を復元しようとした龍野市の心意気や、よし、ですよね。
筆者が訪ねたのは早朝でしたが、御殿の前では自撮り棒を抱えた若い女性が一人で何やらスマホに語り掛けていました。どうやら中国語のようで、喋っている時間の長さからするとどうやらTikTokとかではなくYoutubeか何かに掲載する動画の撮影だったのでしょう。何を話しているのかはわかりませんでしたが、彼女はこのお城で何を伝えてくれたのでしょう。龍野を選び、龍野城の本丸御殿をその撮影場所に選んでくれたことに、心の中でそっと感謝しつつ、映り込まないように大迂回しながら城内を散策しました(笑)。
Data
ランク -
御殿(模擬)、櫓(模擬)、門(移築)、石垣、堀
創築:明応8(1499)年、赤松村秀 改築:寛文12(1672)年、脇坂安政
本多氏、小笠原氏、岡部氏、京極氏、脇坂氏(龍野藩、51,000石)
龍野城下町の一番奥(北)、龍野歴史文化資料館を目指します。資料館の駐車場が使えますので、思い切ってまっすぐ資料館まで来てしまいましょう。埋まっていたら城下にいくつも駐車場が設けられています。


龍野城フォトギャラリー






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