英賀城
あがじょう

(兵庫県姫路市)
最終更新日:2016.9.27

地図

<2016.9.27記>
官兵衛さん伝説の一つである「英賀の戦い」の舞台ともなった英賀の地は、綺麗に区画された住宅地になっています。そんな中に「付城」だとか「矢倉」だとか「城南」だとか、いかにもお城に関係しそうな地名がどかどか出てきて、更には「英賀城跡公園」なる公園も登場するのですが、英賀城の中心地は公園にはなく、現在の英賀神社のあるところ。
ということで、英賀神社に行ってみました。拝殿の裏側に回ると、英賀城の面影を残す土塁が現れます。市街地にあることを思えば、これはよく残ったなあ、と。神社に守られたのでしょうね。
周辺の環境から見て、もっと平たくて跡形もない状態を想像して行ったので、こんな形で土塁が拝めただけでも十分な満足感が得られました。
Data
ランク -
土塁
創築:永享年間(1429〜1441)年、赤松祐尚
赤松氏、三木氏
15世紀の前半に赤松氏によって築かれたのが始まりのようですが、赤松祐尚の次からは三木氏のお城として存在していたようです。16世紀の頃には三木城、御着城と並ぶ播磨三大城のひとつに数えられたほどの名城だったようですが、現在の姿からはその面影を偲ぶことは難しくなっています(他の二城も概ね似たようなものではありますが)。
三木氏は伊予の河野水軍の流れを組むとも言われる播磨の国人で、英賀の地で2世紀ほどの間、独自の勢力を保ってきました。流れが変わったのは三木城の別所氏が毛利方に寝返った時で、この時に他の播磨の国人衆ともども織田信長ー羽柴秀吉の陣営から離れ、結果として羽柴秀吉に城を追われることとなりました。英賀城はどうやらその際に廃城となったもののようです。ちなみに三木氏は九州に落ち延びた後、九州征伐に赴いた豊臣秀吉と再会し、播磨の地に郷士として居住することを許されたそうです。あまり大きくない国人衆には、こんな形で郷里で生き延びる道もあるんですね。
お城は、英賀神社のあるあたりに主郭があったようで、現在も土塁を残しています。城跡公園となっている当りも城域で公園内には石垣も復元されています。この石垣がどういう意味を持つものかはでは、残念ながらまだ調べ切れていません。





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