花沢館
はなざわたて

(北海道檜山郡上ノ国町)
最終更新日:2017.1.9



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<2016.1.9記>
花沢館は、洲崎館に比べればはるかにわかりやすい場所にありました。そもそもgoogleの地図でも洲崎館は出てきませんが花沢館は出てきます。同じ国史跡なのですが、この差はどこからくるのでしょう(そもそもカーナビは、ほぼ全ての国史跡城跡を拾い出しているのですが)。
それはともかく、花沢館の石碑があるところから背後の丘を登ってみると、そこには見慣れた風景が。
「こりゃ、普通の山城だな」
決して評価していないわけではありません。むしろ逆で、「普通の山城」が北海道にあったことに驚いたのです。花沢館はどちらかというと「館」の側面が強いように感じられたのですが、花沢館には切岸もあれば堀切もあって、中世の山城の風景そのもの。なるほど蠣崎氏はヤマトの武将なのだな、と納得させられました。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:享徳3(1454)年、蠣崎季繁
蠣崎氏
花沢館はいわゆる道南十二館のひとつであり、上ノ国守護を務めた蠣崎氏の本拠地となったお城と言われています。道南十二館とは、南部氏との抗争に敗れた安東氏が北海道に逃れ、下国守護(茂別館の安藤家政)、松前守護(大館の下国定季)、上国守護・蠣崎季繁の三守護を任命するとともに、三守護を含む自らの家臣を十二の館に住まわせたことがきっかけなのだとか。これは、もともと北海道にいたアイヌの方々から見れば侵略以外の何者でもなく、長禄元(1457)年には実際にコシャマインの戦いが勃発し、十二館のうち花沢館と茂別館を除く十館が陥落したと言われています。花沢館そうした経緯を踏まえても堅固な城郭だったことが推察でき、やがて季繁の婿養子となった武田信広によって、花沢館を拡大発展する形で勝山館が築かれるに至ります。
花沢館は蠣崎氏の本城としては規模が小さく見えることから、これらの伝承を疑う声もあったようですが、これまでに主郭部分などが部分発掘され、洲崎館と同様に銭2,000枚や磁器などが検出されているようですが、出土した陶磁器の年代は15世紀末以前のもので、蠣崎氏がここにいたとされる時代と一致します。いわゆる戦国時代が本格化するのは16世紀のことであり、蠣崎氏がここに拠点を構えたとされる享徳3年はまだ応仁の乱すら起きていなかった時代ですから、城郭の規模が小さいのはむしろ当然で、仮にその時代の縄張がそのまま残っているのであれば、全国的にも稀な「15世紀の山城」ということになります。





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