五稜郭
ごりょうかく

(北海道函館市)
最終更新日:2017.1.15



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<2013.10.13記>
五稜郭に足を踏み入れたのは1990年前後のこと。入社2年目だったか3年目だったか、最初の営業店で上司とのコミュニケーションがうまくいかなくなり、もがいていた頃だったかと思います。実績も上がらず、どんどん追い詰められていく新人の私を尻目に営業店の成績はうなぎのぼりで、ご褒美としての社内旅行は、社内では最も長距離の移動を伴う函館という、豪華な旅行となりました。
居心地のわるい旅行の中で唯一の光明となったのが、2日目の自由行動の中で訪ねた五稜郭。思いの外多くの女子社員が一緒に来てくれて、わからないなりに一所懸命解説して、あっという間に見学時間を終えたことを覚えています。一人であればそのまま四陵郭へと足を運んだのでしょうが、多くの女子社員の声に押されて赤レンガ倉庫方面へと進路を向けて、あとは普通に函館観光・・・でした。
思えば北海道のお城といえば、この記憶しかありません。奉行所の再建もなったことですし、いつかまた足を運んでみたいものです。

<2017.1.15>
2016年のGWに、久方ぶりで五稜郭を訪ねました。前回訪ねた時とは五稜郭タワーが違っていましたし(笑)、函館奉行所の建物もできていましたし、いろいろと変わっていました。変わらないのは五稜郭そのものの佇まいで、一番変わっていたのは訪ねたのが桜の季節であったこと。
五稜郭と桜、実に絵になりますね。国内外からの観光旅行客だけでなく、地元の方でしょうか、デートを楽しむ姿や家族連れ、はたまたコスプレで写真を撮影する方など、実にいろんな方で賑わっていました。
普段はどちらかというと誰もいないお城を一人で眺めることが多いだけに、こうして賑わっているお城を見ると、これはこれで楽しいなと思ってしまいます。
Data
ランク 「100名城」「100選」「百選」「こんな城」「北海道1位」
奉行所(再建)、石垣、堀
創築:安政4(1857)年、徳川家定
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幕末に江戸幕府によって築かれた、北辺防備のためのお城です。戦国期のそれとは異なり、大砲による戦闘が一般化していることを前提とする要塞として、当時の幕府が知りうる限りの最先端の築城術をもって作られました。設計者は蘭学者の武田斐三郎。星型の陵郭式城郭は16世紀頃に欧州で考案され、18世紀には既に旧式のものとなっていたと言われています。このあたり、鎖国政策が続いた日本の限界だったのでしょう。それでも当時の英知を絞って、財政窮乏の中でこれだけ立派なお城を築きあげた日本の底力には拍手を送りたくなります。
お城は星形五角形のプランに、一方だけ半月堡と呼ばれるでっぱりを設けた縄張りです。半月堡は当初、五方向全てに作られるはずだったようですが、予算の関係でかなりプランが縮小されたようです。そもそも本丸の石垣も、大手と搦手では高さも積み方もずいぶん異なっていて、工事の進捗に応じて次第に予算が底をついていったことが窺えるものとなっています。
戊辰戦争の最終末、幕府軍が立て籠もった五稜郭を官軍が艦砲射撃で落城させました。その戦い方からして、もはや「いくさ」ではなく「戦争」ですね。その際、「中から外が見えるように」土塁より高く作られた奉行所の望楼が格好の標的となり、大砲の照準を合わせやすくなったという逸話も残されています。平成になって復元された函館奉行所の建物には、そうしたいわくつきの望楼も一緒に復元されましたので、そんな逸話も思い出しながら訪ねてみるときっと楽しいことでしょう。





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