高崎城
たかさきじょう



所在地:群馬県高崎市高松町
最終更新日:2023.3.3

   
<2011.10.29記>
学生時代・・・だったと思います。友人同士でスキーに行く際、高崎駅が待ち合わせ場所となったので、早く到着していた友人と二人で高崎城まで歩いて往復し、さらっと眺めたのが最初の訪問です。その時眺めた乾櫓は、お城というにはなんとなく迫力に欠けていて、「ふーん。ま、こんなもんか。」といった程度の感想しか持つことができませんでした。
それが20年以上もの年月を経て、再び高崎城の乾櫓を前にした時には、素直に「おお」という感嘆が漏れました。群馬県内唯一の櫓建築であるとかそういったことは問題ではなく、本丸、二の丸の堀もすべて失って、総じて肩身の狭い思いをしている高崎城にあって、小さいながらも堂々と、「ここが城だぞ」と主張しているかのようなその姿に感銘を受けたのかもしれません。一階と二階が同じサイズという、学生当時は気になったバランスの悪さも、今見ると素朴さや実直さを示しているようで、むしろ好ましく見えてきたり。
乾櫓さん、20年以上もの間、「たいしたことない」と思い続けて、本当にごめんなさい。
戦国時代、ここには「和田城」という別のお城がありましたが、高崎城は和田城をほとんど活用していないようなので、違うお城として創築を「井伊直政」と記しています。慶長2(1597)年から築城を始め、翌年には直政自身が箕輪城から未完成の高崎城に移ってきました。全く新しいプランで築かれていますので、その縄張りには無駄がなく、極めて先進的なお城でした。江戸時代を通じて譜代大名がめまぐるしく入れ替わり、明治を迎えますが、本丸と二の丸の素晴らしい縄張りは、明治になってすっかり埋め立てられてしまい、三の丸の外堀だけが残されています。外堀は、壊された中堀、内堀に比べると幅も狭く貧弱なので、外堀から往年の高崎城の威容を思い浮かべるのは至難です。そんな中、移築されていた乾櫓だけは場所を変え(今は外堀沿いに立っていますが、かつては本丸の御三階櫓(天守)の近くにありました)、今にその姿を伝えています。

<2012.6.16記>
高崎城の堀は、三の丸の外堀を残して全部埋められてしまいましたが、このほど本丸の馬出しに相当する「梅ノ木郭」の堀と木橋の跡が発掘されたようです。保存が望める場所ではありませんが、失われた本丸、二の丸の堀も、地中にはまだ残されているんだな、と実感しました。

<2023.3.3記>
2022年の冬に敢行した上州オフ会の最終見学地が高崎城となりました。初めて訪問した学生時代は別として、高崎城を訪れる時はいつも夕暮れ。高崎駅周辺が集合・解散場所としても、また最後に訪れる場所(シメの場所)としてもなんとなく納まりのよい、「市街地にある近世城郭」であるせいなのだと思います。関東で似たような憂き目に遭うのが、茨城県の土浦城。手元に残る土浦城の写真もその半分くらいは闇の中(笑)。なんとなく申し訳ないとは思いつつも、こういうお城を最後に入れると「あー、今日のお城巡りも終わったな」という気分になるのは事実です。でも、今までなかった「フォトギャラリー」を新たに作成して写真を並べてみたものの、やっぱり真っ暗な写真ばっかりになりました。ちょうどこの時期、城内ではアートフェスティバルが開催されていて、堀を彩る電飾などの写真が撮れましたので、まあお許し頂ければと。
ランク 100選、こんな城、群馬県10位
矢倉、門、石垣、土塁、堀
創築:慶長3(1598)年、井伊直政
井伊氏、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏(高崎藩、82,000石)
アクセス 高崎市役所のある一帯が高崎城のあったところです。城内の群馬音楽センターの付近に乾櫓等の建築物がまとめて移築されていますが、この付近には手頃な公共駐車場がありません(市役所駐車場からだとちょっと遠くて・・)。お堀端に建つスズランデパートの駐車場を利用するのも一法です。


高崎城フォトギャラリー





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