新堀城
にいぼりじょう

(群馬県高崎市)
最終更新日:2016.12.25

地図

<2016.12.25記>
航空写真で見ると、方形の主郭を取り囲む堀の跡が明瞭に残るのですが、現地に行くと・・・まあただの畑です(笑)。
ただ、主郭の土塁があったであろう東南の角部分に立派な石碑と看板が立ち、ここが城跡であることを伝えてくれます。訪れたのはちょうど桜の季節ということもあり、色とりどりの花が看板の周りを飾っていました。
ところで、この日迎撃するはずのお城仲間の姿はすでになく、はるか山上の一郷山城から「なう」のメッセージ。これは急がなければ。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:天文年間(1532〜1555年)、多比良氏
多比良氏
新堀城は別名を多比良城といい、国人領主・多比良氏の居館として用いられました。多比良氏はもともと山内上杉氏の支配下にあり、上杉憲政が没落した際に上杉家に代々伝わる家宝の類を預かっていたのだとか。ところが永禄年間に武田信玄が上野国に侵攻したため、武田氏の手に渡るよりまし、とばかりに、時の当主・多比良友定は家宝ごと新堀城を焼き払ってしまったのだとか。その後、寺の南方に今も残る古刹・普賢寺も武田信玄によって焼き払われていますので、焼き払われたのか焼き払ったのかは定かではありませんが。
お城はいかにも国人領主の居館に相応しい規模感と立地で、概ね100m四方の主郭も教科書通りといってよい作りです。武田氏侵攻の後も多比良氏は新堀城を拠点とし、小田原の役の際に改めて投降しているようですから、現在残る姿は小田原の役時代のものということになります。戦国時代の終末期までこの中世武家館みたいなお城で頑張っていた多比良氏、小さいながらも根性のある家柄かもしれません。
お城は現在すっかり畑と化しており、主郭以外の縄張りは判然としませんが、冒頭述べた通り航空写真では明瞭に主郭とその周辺を巡る堀が辿れます。





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