名胡桃城
なぐるみじょう



所在地:群馬県利根郡みなかみ町下津
最終更新日:2018.8.15

   
<2013.10.13記>
「真田太平記」などのクライマックスシーンとして描かれる名胡桃城は、城代・鈴木主水の悲劇とともに歴史愛好家の心を揺さぶって止まないお城ですが、現地を訪ねた感想は、
「小さい」
という言葉に尽きました。歴史的にはあまりにも有名なお城ながら、現在の地表面から観察されるその姿は特に強烈なインパクトを与えるほどの技巧もなく、どこにでもある戦国城郭のひとつという以上の感想は持ち得ません(注:現在は国道に半ば埋もれている馬出し近辺の技巧に富んだ縄張りや、現在はのっぺりとしている二の丸内の枡形遺構等を理解した上ではありますので、あくまで表面上の感想でしかないのですが)。歴史上重要な役割を演じながら、お城そのものからはあまりインパクトを感じない点では、長篠城と共通するものがあるのかもしれません。訪ねた際にはきっと感極まって、
「主水〜!」
とでも叫んでみたくなるのではないかと思っていたのですが、ただ淡々と「ふむふむ」と見学して終わってしまいました。

・・・とはいうものの、名胡桃城は歴史的にも、かつ城郭史上でも重要なお城です。歴史的には明応元(1492)年に沼田城の沼田氏の支城として築かれたというのが伝承となっている一方、武田勝頼が真田昌幸に命じて築かせたとの説も濃厚です。現実には沼田氏のお城を真田氏が改築したというところでしょう。二の丸手前に存在した丸馬出(現在は地中)が、武田氏による造作のあとを感じさせます。
名胡桃城には真田氏の城代として鈴木重則(主水)が在しました。名胡桃と目と鼻の先にある沼田は武田のものになったり後北条のものになったりしていたのですが、天正17年現在の勢力図としては沼田は後北条のものとなっていました。そうした中、豊臣秀吉の休戦命令を無視した沼田城の猪俣邦憲が策略によって名胡桃城を奪取したことが、後の小田原の役を引き起こすきっかけとなっています。小田原の役という、坂東以来の関東武者たちが畿内の武力によって完全に掌握される一大トピックは、まさにここから始まりました。猪俣氏による名胡桃城奪取がどういういきさつで行われたのかはわかりませんが、この事件によって名胡桃城の城代であった鈴木主水は城外へとおびき出され、城が乗っ取られたことを知った主水がこれを恥じて切腹するという歴史的な悲劇は史実として残りました。
名胡桃城の度重なる発掘調査では、くだんの丸馬出しがわざわざ角馬出しに改造された形跡が見て取れたそうです。丸馬出しが武田氏の特色だとすれば、角馬出しはまさしく後北条氏の特色です。城郭史的には、武田氏ひいては真田氏、さらには豊臣氏の最前線として機能した名胡桃城が一転、後北条氏の最前線として機能することとなり、急遽後北条氏のお城としての体裁に作り替えられたという事実が、このお城を巡る緊張感を裏付けるものとなりました。
そんな名胡桃城ですが、小田原の役が終わり沼田が真田氏の領域となるに及んで、最前線としての価値を全く失うこととなり、あまたの歴史をその地に刻み込んだまま、廃城となりました。

<2017.10.5>
久々に名胡桃城を訪ねてみたら、ずいぶん綺麗に整備されていました。郭内の門の位置が正確に復元されたのは大きいですね。見やすく、わかりやすいお城になりました。訪ねた時には桜も満開で、絵になる光景が広がっていました。祝!続100名城!
ランク 続100名城、群馬県6位
土塁、堀
創築:明応元(1492)年、沼田氏 改築:天正17(1589)年、猪俣邦憲?
沼田氏、鈴木氏
アクセス 国道17号線、月夜野バイパスで沼田方面から利根川を渡れば、利根川からおよそ500mで「名胡桃城交差点」に辿り着きます。右折して駐車場に車を停めれば、名胡桃城はすぐ隣です(正確に言えば、駐車場も城内です)。


名胡桃城フォトギャラリー





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