江田館
えだやかた

(群馬県太田市)
最終更新日:2014.11.1

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<2014.11.1記>
上州の太田近辺には、「新田荘遺跡」としてまとめて国史跡の指定を受けている遺跡が散在します。江田館もそんな中のひとつで、ちょっとした段差の上に、ほぼ方形の館跡が広がっています。土塁の内側は、綺麗に草が刈られた方形の空間が広がるばかり。訪ねたのは12月のこと、吹きすさぶ風が身を切るように冷たかったのを覚えています。
土塁の中のどこかに、由緒ある祠があるはずなのだけれども・・・と思いながらも、あまりに寒くて時間もなくて、早々に引き揚げてしまいました。この館の土塁の中には新田義貞を祀る祠があり、ここから分祀されて太田金山城の新田神社ができたのだとか。そんな貴重な祠の場所を、しっかり見ることもなく戻ってきてしまったことは痛恨でした。
Data
ランク -
土塁、堀
創築:鎌倉〜南北朝時代、江田氏
江田氏、矢内氏
江田館を築いた江田氏は新田氏の一族で、江田行義が新田氏初代・義重から数えて5代目にあたるのだとか。新田氏惣領の新田義貞に従って鎌倉攻めにも参戦し、軍功を挙げた記録があるそうです。ただ新田氏は足利氏に敗れ、室町幕府下では日の当たる場所に出られるはずもなく、200年以上もの間、江田氏はこの地を踏むことはなかったようです。なので江田館も戦国時代には別の人の館として使われていたわけで、それが横瀬氏(横瀬氏も新田氏の一族ではありますが)の家臣・矢内四朗左衛門という人物だそうです。館の周りには黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷といった名称が残りますので、相応に大きな武士団の拠点として機能していた時代があるのでしょう。
現在の館は土塁と堀をほぼ完全に残していて、国史跡として十分な入れも施されていますので、見学も容易です。単なる四角ではなく、東側と南側に直角の「折れ」を持っています。そんなあたりから察するに、この館は時代に応じて適宜形を変え、少しずつ防御性を高めながら、長く使われたということなのではないかと思います。





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