美濃金山城
みのかねやまじょう



所在地:岐阜県可児市兼山町古城山
最終更新日:2020.6.10

   
美濃金山城は、斎藤道三の養子であった斎藤正義が築城したのが歴史上の初見です。齋藤正義は近衛家の出身で、かの近衛前久とは異母兄弟の関係に当たるのだとか。そんな高貴な方がなんでまた戦国の蝮:斎藤道三の養子になっているのかも謎ですが、ともあれ正義は久々利城の土岐氏によって謀殺されてしまい、美濃金山城も暫く歴史の闇の中に埋もれてしまいます。
美濃金山城に再び光が当たるのは、永禄8(1565)年に織田信長によって森可成が封じられてからのこと。この時から森氏が川中島に移封される慶長5(1600)年までの間に、美濃金山城は順次織豊系城郭としての威容を整えていったと考えられます。森氏は勇猛果敢な一族で、それだけにあちこちの戦で続々と命を落とします。本能寺の変で壮絶な最期を遂げた森蘭丸も森氏の一族ですね。それでも末っ子の森忠政が踏ん張って、森氏は紆余曲折がありながらも江戸時代を通じて三つの家系が大名として存続しますから、しぶとい一族とも言えそうです。
さて美濃金山城は山頂の本丸を中心として、その周辺に二の丸、三の丸を配した典型的な山城です。随所に石垣が用いられ、枡形虎口の跡も明瞭に残している他、上で述べた本丸御殿群の礎石、天守台の基礎部分の石垣、立ち入り禁止ながら水の手曲輪など、主要部分をよく残しています。お城自体は犬山城築城時に資材を持ち去られているのですが、現在残る遺構は失礼ながら犬山城よりはるかに大きくて立派なお城だったことを物語っているような気がします。なお、犬山城天守は長らく美濃金山城天守の移築だと伝えられてきましたが、犬山城天守の解体調査では、移築を裏付ける証拠は得られませんでした。
美濃金山城はその歴史的価値と(破城されてなお)良好に残る遺構とが評価され、平成25(2013)年、国の史跡に指定されました。

<2016.12.8記>
静岡古城研究会の見学ツアーの最後を飾ったのが、国指定史跡・美濃金山城。鬼武藏の異名を取った森長可を筆頭とする森一族が本城としていたお城だけに、その構えは厳重そのもの。破城され、残欠ばかりになった石垣が却って圧倒的な存在感を醸し出しています。驚いたのは本丸の地表面で、今すぐにでも建物が建てられそうなくらい、規則正しい礎石がそれこそ碁盤の目のように、綺麗に並べられています。400年以上もの間、元の地表面を保っていたということなのでしょうか。
本丸の周囲を巡る石垣も壮観そのもの。本丸周囲は一段の高石垣ではなく、どうやら二、三段に分割されて高さを稼ぐ形の石垣だったようで、かなり古い石垣であることを物語っています。このお城が廃城になったのは慶長5(1600)年のことですが、本丸周辺の石垣はそれより10年以上遡り、それこそ鬼武藏の頃に信長の安土城に倣って築かれたものなのかもしれません。美濃金山城はその意味で、織豊系城郭の代表例と言って間違いなさそうです。

<2020.6.10記>
続100名城を祝し、改めて美濃金山城を訪問しました。前回訪ねてから今回訪ねるまでの間に美濃金山城は発掘調査がなされているため、本丸の礎石群等が以前の風情を保っていられるかどうかが気がかりだったのですが、見た限り(発掘の痕跡は見られたものの)大きな変化はなさそうでした。むしろ天守台石垣の露出部分が以前より多くなるなど、全体として綺麗になったな、というのが第一印象でした。一方、「何かが違うなあ」と思ったのが本丸の枡形門。帰宅して改めて写真を見比べたら、破城時の石が綺麗に片付けられてしまったんですね。もともと枡形を構成していた石垣の上部を取り壊して枡形通路を埋めているので、通路を再整備する際にはその石が邪魔になったということだと思うのですが、あれはあれでまさしく破城の痕跡を示す貴重な遺構だったような気がしてなりません。現地を見ていて何かしら物足りなさを感じたのは、荒々しい破城の痕跡が薄められてしまっていたからなのでしょう。あれでよかったのかなあ。9

<2021.2.9記>
100名城・続100名城に「松山城」が三つもある(伊予、備中、宇陀)のはご承知の通りですが、「金山城」は「高松城」とともに、二つのお城が選ばれています。備中と讃岐の高松城はそれぞれ「たかまつ」ですが、太田金山城と美濃金山城は「おおたかなやま」と「みのかねやま」で、実は読み方も違うんですね。漢字って、ほんとに難しいです。
3回目の訪問では、初めて伝・米蔵にも足を運びました。江戸時代に米蔵として使用されたために破城を免れたということのようで、以前は草に埋もれていたそうですが、現在は綺麗に整備され、美しい高石垣を見ることができます。虎口には鏡石も嵌め込まれていて、この虎口が非常に重要だったことを物語っています。そもそもこちら側、なんとなく搦手的に語られていますが、かつての名鉄兼山駅はこの伝・米蔵のすぐ近くにあったわけですし、そもそも城下町はこちら側なんですよね。そういう意味ではこの伝・米蔵の石垣は美濃金山城の風格を存分に高めてくれる存在だったのだと思います。そうやって考えてみると、よく壊されなかったものですね。
ランク 国史跡、続100名城
門(移築)、石垣、土塁、堀
創築:天文6(1537)年、斎藤正義 改築:天正年間?、森氏
斎藤氏、森氏、石川氏
アクセス 蘭丸ふるさとの森が山麓に広がっています。そちらの駐車応から上がってもよいのですが、楽をしたければ(汗)、蘭丸ふるさとの森に左折せずそのまま山道をまっすぐ登り、次の分岐で左に折れると一段高いところの駐車場に出ます。ちょっとわかりにくいですが、ここから登る方がかなり楽になります。
続100名城スタンプは木曽川沿いの街並みの中にある可児市観光交流館(無料)で押すことができます。隣の戦国山城ミュージアム(有料)に置けばよいのに、と思うのですが、スタンプを押す側としてはコストが安くて済む(その分地元にお金が落ちない・・)点が有難いような腑に落ちないような。


美濃金山城フォトギャラリー





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