広瀬城
ひろせじょう



所在地:岐阜県高山市国府町名張
最終更新日:2020.4.21

   
<2013.10.27記(2020.4.21改)>
飛騨高山に赴いた折、人待ちの間に一人で広瀬城を目指しました。いろんなサイトで意外感をもってお勧めされているのを見て、さてどんなもんだろうと行ってみたところ、なるほどこれは「意外感」を持って伝えられるに相応しいお城だと思いました。城郭史研究の過程で「畝状竪堀」というものの存在が大きくクローズアップされてからまだ30年も経過していないと思うのですが、このお城は山の下から見上げても、まるでゼリーかマドレーヌのように、山の稜線から山腹にかけて綺麗な竪堀が幾筋も広がっているのが見えるのです(注:2019年現在は木が大きくなってきてちょっと見えにくくなってきました)。「お城の人」ならば「あらー」とでも声を上げそうな風景が、人の集まるスーパーマーケットのすぐ裏の山に広がってるという、何とも言えない違和感というか、それこそ意外感を味わうことになりますね。
山に登ればこれまた素敵で、もっと素敵な畝状竪堀が山の中に広がっています。畝状竪堀で斜面の有効性を阻害する・・とはよく聞く城郭解説ですが、ここの竪堀を見ればその意味するところがとってもよく理解できそうです。決して知名度の高いお城ではありませんが、世の中にはこんな素敵なお城もまだまだ眠っているんですね。
広瀬城は有力国衆だった広瀬氏のお城です。広瀬氏は藤原利仁の後裔と伝えられ、鎌倉時代からこの地の支配者層でした。一時広瀬氏の本城だった時期もあったようですが、戦国時代の最盛期にはもう少し険しい高堂城を本城としていたようで、広瀬城は高堂城の支城の扱いだったようです。それにしてはずいぶん丁寧な作りですが。
天下統一の機運が高まる中、飛騨地方を取りまとめる支配者は三木氏=姉小路氏から織田・豊臣の被官であった金森氏に移行していきます。姉小路氏によって広瀬氏はいったん飛騨を追われ、広瀬城は高堂城とともに三木自綱(姉小路頼綱)の持ち城となっていた時期がありました。現在見る広瀬城は、この姉小路氏の時代に改修されています。その後、広瀬氏は金森氏に従って再び飛騨の地に戻ってきますが、金森氏の支配権力が強化されるに及び離反し、近隣の江馬氏とともに一揆を起こして鎮圧されました。広瀬氏の後裔は彦根の井伊氏にお仕えし、明治を迎えたのだとか。
広瀬城は高山・古川方面への街道の押さえとしては格好の場所に位置しており、街道に面した北面、西面に畝状竪堀をがんがん掘り込んで、防備を固めています。一方、各郭には土塁が見られませんので、当初から土塁で囲まれた曲輪は持っていなかったのでしょう。全体に遺構はよく残り、見学も大変容易です。ぜひ訪城をお勧めしたいお城です。

<2020.4.21記>
2019年の秋、久しぶりに広瀬城を訪ねました。オフ会でわいわい訪れたのですが、参加者全員で堂々と道に迷うという不覚。こんなに登りやすいお城を、どうして直登したのやら(笑)。でもおかげで意図せず広瀬城の裏から入ることとなり、尾根続きが小さいながらも多数の堀切でこつこつと切断されていることもわかりました。大きな堀切を越えて城内に進入すると、左手の切岸下に畝状竪堀が現れます。切岸の下にいったん横堀を入れて、横堀の下から畝を出す構造は、一見してとっても丁寧に作られているとの印象を受けます。広瀬城は各々の郭こそ土塁もなく技巧的な虎口もない単純な構造なのですが、畝状竪堀や堀切、緩斜面を遮断するための二重堀など、郭周辺の普請が丁寧です。思わず「いい仕事してるなー」と言いたくなるような、こんな山城、あんまりないと思うんですよね。
ランク -
土塁、堀
創築:16世紀?、広瀬利治
広瀬氏、姉小路氏
アクセス 国道472号線の名張交差点で川とは反対側(南側)に折れて、突き当りを左に曲がり、すぐに右に曲がると文化財保護センターが現れます。ここに車を置かせて頂き、左方向に進むと広瀬城の登り口が現れます。ついつい正面の水道施設みたいなものを目指してしまうのでご注意を。


広瀬城フォトギャラリー





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