江馬氏館
えましやかた

(岐阜県飛騨市神岡町)
最終更新日:2013.11.2



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<2013.10.31記>
かっこいい館だな、と思いました。この館が機能していた頃には、庭園の借景となっている山の上に、詰めの城としての高原諏訪城が颯爽と輝いていたはずです。もとより天守のあるような今でいう「城」ではなかったはずですが、物見櫓や柵が林立しているさまは、館を守る城としてさぞや頼もしく映ったことと思います。
復元された庭園は、かつては田んぼの中に石が突き出した状態であったとか。歴代の農家の方々、よくぞ石を動かさずにいて下さったものです。ちなみに館内を説明して下さった方によれば、復元された館では音楽会なども開かれるのだとか。有力国人・江馬氏の館として、当時もきっといろんな風雅な催しがあったことでしょう。
武家館での夜の演奏会、ちょっと見てみたくなりました。
Data
ランク -
館(復元)、門(復元)、塀(復元)、土塁、堀
創築:不明、江馬氏
江馬氏
飛騨の有力国人、江馬氏の館です。江馬氏は平氏の流れを組むと言われ、鎌倉時代から綿々と血脈を受けついてきましたが、戦国時代も後半になると、飛騨地方の国人たちは武田か上杉か、はたまた織田・豊臣かのいずれかに属しながら自己の勢力を拡大するという、実に困難な局面に立ち向かうことになります。飛騨にあって最後に雌雄を決したのは飛騨松倉城に本拠を置く三木氏(姉小路氏)と、この江馬氏と言ってよいと思いますが、三木氏が総じて織田・豊臣の「天下人」を後ろ盾としたのに対し、江馬氏は対抗上武田氏、あるいは上杉氏を後ろ盾とせざるを得ず、一貫して劣勢に立たされました。この両氏がともに外敵に屈するのは上杉謙信の越中侵攻時だけで、三木氏は上杉謙信の死後すぐに織田側に鞍替えし、江馬氏との対立を強めました。天正10(1582)年、本能寺の変による混乱を好機とみた江馬氏が三木氏に戦いを挑みますが、これに応じた三木氏の返り討ちにあって、江馬氏は棟梁の江馬輝盛が討死するという大惨敗を喫します。これを契機として三木氏は飛騨一円の支配に成功し、同時に江馬氏の没落が決定します。
江馬氏館はこの戦いをもって廃され、以後は使われることなく田畑へと姿を変えることになりましたが、驚くべきことに、つい最近まで畑の中に庭石が顔を出していたとのことです。その庭石の周辺を発掘したら、これらの石は庭園としての原位置を保ったまま、田畑の下に埋もれていたことがわかりました。現在、庭園は隣接する「会所」と呼ばれる建物とともに復元され、詰めの城「高原諏訪城」を借景とした美しい姿を取り戻しています。





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