会津若松城
あいづわかまつじょう



所在地:福島県会津若松市追手町
最終更新日:2020.1.16

   
<2013.10.8記>
大学を卒業したばかりの夏の日、買ったばかりの車を駆って、大学時代のサークルの夏合宿に顔を出しました。猪苗代湖を通って会津若松市に一泊する合宿で、2日目の午前中が会津若松城見学、となっていました。
「お城、詳しいんですよね〜。解説お願いします♪」
と後輩の女子学生たちにお願いされたはよいものの、歴史もお城も興味がない、そのくせやたらと頭がいい女子学生たちに、会津若松城の良さや面白さを全くアピールすることができず、
「こ、ここが武者走りね。階段が両側についてます。」
「なんでこうなってるんですか?降りるときにぶつかっちゃうじゃないですか。」
「うーん・・・」
なんとも情けない、お城解説の苦い記憶。
俗に「小城節」と称される、お城の良さを一気にまくしたててこちらのペースに引き込む手法は、こんな苦い記憶にその源流があるのかもしれません。

会津若松城はもともと黒川城の名で知られ、南北朝時代から葦名氏の拠点であったものを伊達氏が奪い取り、しばし伊達政宗が本城としていた時代もありました。一説には伊達政宗生誕の城といわれましたが、政宗の生誕地は現時点では米沢が有力視されています。
お城が現在の形になったのは小田原の役の後、蒲生氏郷がこの地に封じられてからのことです。氏郷は大々的な築城工事を行い、現在の本丸、二の丸あたりは氏郷の時代に作り上げられたようです。その後に入った上杉景勝はこのお城の何かが気に入らなかったのでしょう。近隣の神指にもっともっと大きなお城を築くべく、かなりのところまで工事を進めました。上杉氏がもう少しこの地に留まっていたら、会津若松城はこの世に存在しなかったことになります。ところが上杉氏は米沢へと移封され、後に入った蒲生秀行、加藤明成は神指城を放置して会津若松城の拡張に注力し、現在見る大城郭へと変身を遂げました。
会津には後に徳川家光の実子(庶子)である保科正之が入り、この保科氏の子孫が会津松平氏として、明治まで子々孫々相伝えます。明治維新の際、戊辰戦争最大の激戦地となったことで、白虎隊の悲劇や新島八重の逸話などが誕生するのは有名な話です。また、砲撃によりぼこぼこになった痛々しい天守の古写真も、よくあちこちで引用されますよね。
お城は戊辰戦争の痛みが激しかったため、建物は明治になって取り壊されましたが、昭和になって鉄筋コンクリートで外観復元されました。更に2012年には天守の瓦が江戸時代と同じ「赤瓦」に葺き替えられ、東北随一の天守の美しさに一層磨きがかかりました。

<2020.1.16記>
何回目かの会津若松城訪問は、桜まつりか何かの真っ最中でした。お祭りにぶつかった時の「お城あるある」なんですが、この時もえらく離れたところに車を停めさせられ(笑)、てくてく歩いて天守までスタンプを押しに行く羽目になりました。大きなお城に限って、こういう人混みにぶつかってしまうんですよね。まあ仕方ない。
ランク 国史跡、100名城、100選、百選、こんな城、福島県1位
天守(復元)、櫓(移築、復元)、門(復元)、石垣、土塁、堀
築:元中元(1384)年、葦名直盛  改築:文禄元(1592)年、蒲生氏郷
葦名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、松平(保科)氏(会津藩、230000石)
アクセス 会津若松市屈指の観光名所で,博物館等の公共施設も集中しています。周辺には大きな駐車場も沢山あります。お祭り等のイベントにぶつからなければ快適に見学可能だと思います。


会津若松城フォトギャラリー





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