柳川城
やながわじょう


所在地:福岡県柳川市本城町
最終更新日:2023.4.4

<2011.12.5記>
福岡から熊本へと向かう道すがら、時間的に久留米城か柳川城のどちらかにしか立ち寄れない状況となり、しばし考えた末、柳川城を選びました。混雑する道をのろのろと進み、柳川市内へとたどり着いた頃には、もう日も沈み、ほんのりと薄暗くなってきていました。
本丸跡を占めている学校には人影もなく、天守があったと言われる小高い丘の上にも、一本の大木が葉の落ちた枝を広げているだけで、誰ひとりとして人の気配を感じることはありませんでした。季節ともなれば、掘割巡りの観光客で賑わうはずの柳川も、1月の真冬ともなれば訪れる人もまばらなのでしょう。
何もない、といった方が的を射ているお城ですが、現地で実際にこの目で見て確信したのは、このお城、堀だけは完璧にその跡を残しているということ。普通の町であれば、当然に埋め立てて道路の幅を2倍にするところ、このお城では堀は堀のまま存在し、車の方が堀に遠慮して走っているということ。石垣すらも失ったこのお城にあって、堀だけはかつての存在感を示し続けているようです。そのことがちょっぴり嬉しくて、柳川の町がちょっぴり好きになりました。
・・・柳川三年 肥後三日 肥前久留米は朝茶の子(朝飯前)。
掘割に囲まれた柳川城がいかに難攻不落であったかが、上の戯れ歌に詠み込まれていると言われています。龍造寺氏と大友氏という二大勢力に挟まれながら、両氏の度重なる襲来にも耐え抜いた実績を持つ、古今の名城です。元来、この地域には名将が多く輩出していますが、このお城を本格的な戦国城郭として整備した蒲池鑑盛という武将も、なかなかひとかどの人物であったようです。龍造寺氏の猛攻にもしっかり耐え、柳川城は持ちこたえています。ところが、鑑盛の子の蒲池鎮漣の代になって、蒲池氏は龍造寺氏の謀略によって一族もろとも惨殺されました。酷い話ですが、それだけ柳川城が堅固だったということでしょう。柳川城は龍造寺氏の持ち城となり、鍋島直茂が入ったりしますが、この時に大友氏の猛攻を受け、またまた持ちこたえています。こうしてみると柳川城、城が堅固なばかりではなく、その将にも恵まれているということも出来そうです。
豊臣秀吉の九州征伐の後、この地は立花宗茂の治めるところとなります。これまた名将中の名将ですね。宗茂が関ヶ原で西軍方についたため、立花氏はいったん改易となり、田中吉政が筑前32万石の大大名として、柳川城を近世城郭へと大改造します。この時、五重の天守も作られた模様です。田中氏が2代で無嗣改易となった後は、立花宗茂が「奇跡の返り咲き」によって柳川藩主の座に座り、以後立花氏10万石のお城として、明治まで脈々と受け継がれます。
これだけなら、柳川城も他の九州の名城と同じく、現代にその雄姿を伝えたはずなのですが・・・明治5(1872)年の失火(放火とも)により天守以下多くの建造物が焼失し、石垣は明治7年の台風襲来を機に、海岸の防波堤用材として運び出されました。現在の柳川城は学校の敷地となり、その周囲に旧材を用いた石垣と、天守台の故地と伝わる小高い場所を残すのみとなりました。ただし、かつて城郭を囲んでいた堀はほぼ旧来の位置のまま残され、水郷・柳川の名物・屋形船の通り道として、現在も多くの人々に憩いを与え続けています。

<2023.4.4記>
戦国時代から難攻不落のお城として名を馳せ、立花氏10万石のお城として壮麗な五層の天守を擁した古写真なんぞが残っているせいで、現在の柳川城がことさらにもの淋しく見えてしまうのですが、近世城郭でも長岡城や尼崎城、沼津城などがほぼほぼ跡形もなく消え去ってしまっていることを思えば柳川城は十分にその面影を残していると言えませんでしょうか。いや、比べる相手を間違ってるとか言わないでくださいな(笑)。
柳川城の天守台があったとされる場所は今でも周囲より一段高い空間になっていますし、何より屋形船が通る掘割はまさしく昔ながらの堀の跡。復元天守と周辺の建物群を取り払ったら、それこそ大垣城ともいい勝負なのではないでしょうか。いや、大垣城から建物を取り払うこと自体が間違ってますが(笑)。
どんなに取り繕っても言い訳にしか聞こえない柳川城の現状ではありますが、柳川城が難攻不落の名城であったという歴史的事実は動きません。一般にお城は高低差があった方が防御性が高いような錯覚にとらわれ、平城よりも山城の方が防御性が高いように考えがちなところがあるのですが、平地にあって池や湿地に囲まれた難攻不落の名城というものも多数存在します。水攻めで有名な備中高松城や忍城も、攻めにくかったからこそ水攻めなどという手が使われているわけですから(忍城なんか、水攻めでも落ちていませんしね)。琵琶湖に面した大津城も関ヶ原関連の戦いでは大軍を相手に長い間頑張っています。堅固なお城の評価というものは、決して一通りの固定観念で決めつけられるものではなく、その立地条件に応じた最適な防御方法というものがあって、それを十分に満たしたお城が「堅城」としての評価を受けるのだと思います。大軍を相手に何度も何度も持ちこたえた柳川城は、その実績をもって間違いなく堅城の称号を得るべき名城なのでしょう。もうちょっとお城らしさが残っていればなおよかったのですが・・・あれ?(笑)
Data
ランク -
門(移築)、堀
創築:永禄年間(1558〜1569)、蒲池鑑盛 改築:慶長5(1600)年、田中吉政
蒲池氏、立花氏、田中氏、立花氏(柳川藩、100,000石)
福岡県立柳川高校の敷地が概ね柳川城の本丸に相当します。敷地内に石垣の石で構築された石垣(ややこしい言い方・・)と、天守があったとされる土檀が残されています。学校なので専用の駐車場はありません。近隣のコインパーキングなどをご利用ください。


柳川城フォトギャラリー






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