益富城
ますとみじょう

(福岡県嘉麻市)
最終更新日:2015.8.2

地図

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<2015.8.2記>
2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」を偲びながら筑前六端城を訪ねてみようと、又兵衛さんと太兵衛さんゆかりの益富城に立ち寄りました。なるべく山の上まで車で行けるお城を選んだのですが、山城部分に入っていくこの最後の山道が助手席の嫁には堪えるらしく・・・も、申し訳ない(汗)。
益富城は大河の主要登場人物2名に関わるお城で、掘り出された石垣の適度な荒れっぷりがお城好きにはたまらないお城なのですが、いかんせん地味さは隠しようもありません。写真だけは沢山撮って、次のお城へと向かいました。お腹空いてましたし、ね。
Data
ランク -
門(移築)、石垣、堀
創築:永享年間(1429-1441)年、大内盛見 改築:慶長5(1600)年、後藤基次
大内氏、毛利氏、秋月氏、早川氏、後藤氏、母里氏
九州北部は現在普通に想像する以上に中国地方の大名による影響が大きかったようで、増富城も元を正せば周防・長門の有力守護大名であった大内氏の第11代当主・大内盛見が築城したのが最初だと言われており、その後毛利元就の傘下に収まっていたこともあるのだとか。豊臣秀吉の九州征伐時には秋月城の支城となっていましたが秀吉軍のあまりの勢いに押され、秋月氏は益富城を破却して古処山城に戦力を集中して籠城戦の構えを見せます。そこで秀吉特異のはったり・・・いやいや一夜城伝説がここでも発揮されることになります。すなわち益富城を障子紙と松明で飾り立て、一夜にして城が出来上がったように見せかけ、その結果戦意を喪失した秋月氏は秀吉に降ることになりました。この一夜城伝説は現在も益富城周辺で語り継がれていて、町を走ってるとそこここに「一夜城」の幟が立っていたりします。
九州征伐後の益富城には秀吉の臣・早川某が城将となりますが、関ヶ原の戦いの際には西軍についたため所領召上げとなり、黒田氏の支配の下ではいわゆる「筑前六端城」のひとつとして後藤又兵衛基次、後には母里太兵衛が城番を務めます。最終的には元和の一国一城令で廃城となりますので、現在残る遺構は又兵衛時代あたりのものが主流ではなかろうかと思います。
お城は中世以来の山城に石垣造りの近世城郭を乗っけたような造りになっています。主郭周辺は典型的な織豊系城郭となっていますが、往時より相当石垣は低く削られてしまっているようで、地中に埋もれていた数段分の石垣が発掘されたまま露出した状態で残されています。また、益富城から移築したものと伝えられる門が近隣の善照寺に伝えられています。お寺の山門にしてはちょいと無骨な門なので、益富城にあったと思っても間違いではなさそうです。





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