敦賀城
つるがじょう

(福井県敦賀市)
最終更新日:2016.1.9

地図

<2016.1.9記>
悲運の名将・大谷刑部ゆかりの地とあれば、たとえ何もなくても立ち寄らないわけにはいかないとばかりに立ち寄りましたが、ほんとになにもありませんでした。敦賀西小学校と真願寺にそれぞれ石碑があるくらい。真願寺では車の転回にまごまごして近隣の方の迷惑にもなっちゃいましたし。ほんとにごめんなさい。
Data
ランク -
門(移築)
創築:天正11(1583)年、蜂屋頼隆
蜂屋氏、大谷氏
敦賀城を最初に築いたのは羽柴秀吉の臣・蜂屋頼隆だったようで、天正11(1583)年には敦賀城に三重の天守が上げられたようです。蜂屋頼隆は「豊臣」の姓を与えられるほどに秀吉の信頼を得ていましたが天正17(1589)年には死去してしまいます。頼隆には跡を継ぐべき子がいなかったため所領は没収となり、その後に入ってきたのが、かの大谷吉継ということになります。大谷吉継は関ヶ原で盟友・石田三成と運命を共にしたためこれまた所領没収となり、その後は越前・若狭を領した結城秀康の所領に組み込まれます。敦賀城には城代が派遣されていたようですが、敦賀城があった場所が「結城」と称されているのは結城秀康の所領であったことに由来しているのだそうです。もともとは下総の地名であり、坂東の名族の苗字でもある「結城」がこんな形で敦賀に伝来するというのも面白いですね。
敦賀城は元和2(1616)年に、一国一城令に基づいて破却されます。この時の破却が徹底していたせいでしょうか。お城は跡形もなく消滅してしまいました。唯一の遺構としては、市内来迎寺にある山門が敦賀城の中門を移築したものと伝えられているに過ぎません。





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