東郷槇山城
とうごうまきやまじょう



所在地:福井県福井市栃泉町
最終更新日:2018.6.3
<2015.12.21記>
北陸旅を企画して、道中立ち寄れそうなお城をピックアップしているうちに、初めてこの城郭のことを知りました。
なんと、ばりばりの大名城郭ではないですか。長谷川秀一の。というか、長谷川秀一、こんなところにいたんですね。北ノ庄からもほど近く、一乗谷から山一つ越えたこの場所に、独立大名のお城があったことには素直に驚きました。
東郷槇山城のある一帯は東郷荘という名の荘園で、一条家の所領だったようですが、15世紀の始めに朝倉氏の一族が東郷槇山城を築いて東郷荘を簒奪したもののようです。朝倉氏の本拠地が一乗谷城だった時代には一乗谷城の支城群の一つとして、一乗谷への道に睨みを効かせていました。
朝倉氏が滅亡し、柴田勝家も滅んだ後の天正12(1584)年、東郷槇山城には豊臣大名の長谷川秀一が15万石で入り、「城台」周辺の整備を行いました。秀一は本能寺の変の際、徳川家康の決死の帰還(いわゆる神君伊賀越え)に同行した武将としても知られた人物ですが、文禄・慶長の役の際に現地で病没します。この後ほどなく長谷川家は改易となったようで、東郷槇山城には丹羽長秀の次男長昌がやはり15万石で入ります。この15万石という数字と東郷槇山の支配単位は、恐らく中世以来の東郷荘の範囲を示しているのでしょう。これだけの所領を15世紀に持っていかれた一条氏の怒りや虚しさはものすごいものだったでしょうねえ。。。その後、東郷槇山城は丹羽氏の改易とともに廃城となりました。
現在伝わる東郷槇山城の遺構は、中心部が長谷川氏、周辺部が朝倉氏によるものと考えられます。周辺部から見ていくと、まず一乗谷城方面に続く尾根には4段の堀切が設けられ、西側から北東側までの斜面に大小様々な曲輪が構築されています。一方中心部には相応に広い曲輪が尾根に沿って2ヶ所構築されており、ここに長谷川氏や丹羽氏は屋敷を構えたことでしょう。城内最高所は「城台」と称され、石瓦を持つ天守級の建物が作られていたようです。察するに、丸岡城の天守みたいな建物だったのではないでしょうか。そこそこ険しい山ですが、山の上まで舗装された車道が整備され、山上には駐車場も完備していますので、訪問は容易なお城です。
霧に煙る山上まで車で進み、最高所に向かう石段の脇には「天守閣址」の看板が。わくわくしながら登ってみると、表土は一面が保護シートで覆われ、その上に軽く土が被せられていました。保護されている内側の地面には、何が散らばっているんでしょうね。
城台から駐車場を挟んだ反対側には芝生の公園が広がっています。ベンチが置かれた一角には、丸い大きな石が4、5個。これ、庭園の跡ではないですかねえ。これだけ平たくて広い曲輪の片隅に石を置く理由は、庭園くらいしか思いつきません。
駐車場の周囲は、正直なところお城というにはちょっと淋しい普通の公園になってしまっていますが、それでもこんな「庭園」の跡や、かつて存在したかもしれない「天守」に思いを馳せることもできます。立ち寄ってよかったな、と思いました。

<2018.6.3記>
その後、機会を得て改めて東郷槇山城を見る機会に恵まれました。城台の風景は相変わらずでしたが、冷静に眺めていると周辺に散在している石は天守の礎石ですよね。礎石のサイズからしても相当しっかりした建物が建てられていたのでしょう。また、前回には見つけられなかった石垣も、主郭下の斜面で見つけることができました。長谷川秀一がこの城の主になった頃の築城背景から推察すれば、少なくとも主郭周辺はかなりしっかり石垣で固められていたのだと思うのですが、これだけしか残っていないのはなぜなんでしょうね。よくよく考えてみると結構深くて謎の多い東郷槇山城。うかつにも、また行ってみなければという気分になっています。
Data
ランク 福井県8位
石垣、土塁、堀
創築:1400年代、朝倉正景 改築:天正12(1584)年、長谷川秀一
朝倉氏、長谷川氏、丹羽氏
県道32号線を南進していくとやがて東郷槇山城への山道を示す案内看板が出てきます。県道32号線から外れなければまず迷うことはない道だと思います。山道をずんずん進んでいくと、かつて堀切があったであろう空間がそのまま駐車場になっています。九頭竜線の越前東郷駅からなら1kmくらい歩いたところです。





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