村岡山城
むろこやまじょう

(福井県勝山市)
最終更新日:2015.12.14

地図

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<2015.12.14記>
せっかく北陸に行くのだから、オススメの名城はなるべく網羅していきたい・・・と行程に組み込んだのが、ここ村岡山城。
地図で見ると、なんとなく車で行けそうな道があるようにも見え・・・たのは、単なる錯覚でした。
村岡山城のある山は、遠目からでも「あ、あそこがお城だ」とわかる山。見上げたところ、比高はざっと100mちょっと。まあ30分で往復できるかと目論んで、登りはじめたのはよいのですが。降り続く雨は、いっこうに降りやみそうにはなく。
岩盤むき出しの山道は、登るときはまだしも下る時には相当滑ることを覚悟しなければなりません。
それでも登るか。答は「応」。
この機会を逃せば、もう二度と来ることはないかもしれない、遠征先。登るべし、登るべし。
大聖寺城からの移動のさなかに乾きかけたジーンズが再び水を含んで重たくなった頃、ぽっかりと山頂に辿り着きました。
意外と広い山頂には、四角い堀とかき上げの土塁に囲まれた主郭がどっしりと。想像していた以上に、ずっとずっと立派な主郭でした。
そして、このお城の白眉は、主郭背後に広がる緩斜面につけられた、10本以上の畝状竪堀。まるで巨大なトタン板か洗濯板でも立てかけたような竪堀の連続に、思わず息を飲んだのでした。
ちなみに帰りは思ったほど滑ることなく下山できましたが、それでも行きの倍近くの時間がかかりました。雨の中を登るお城じゃありません。
Data
ランク 「福井県4位」
土塁、堀
創築:天正初年、一向一揆衆 改築:天正5(1577)年、柴田勝安?
柴田氏
一向一揆のお城と言われます。その始源は定かではありませんが、越前朝倉氏の正真正銘最後の当主・景鏡(朝倉義景を裏切って織田信長に投降し、越前の支配を委ねられた人物)が一向一揆衆と戦い憤死するという事件が発生しますが、この時に景鏡が攻めたのがこの村岡山城と言われ、一向一揆衆が勝ったことを記念して「勝山」と改称したのが現在の勝山市なのだとか。
その後の村岡山城は一向一揆衆と織田方の柴田勝家との争いとなり、勝家の甥・柴田義宣が天正3(1575)年に村岡山城に入りますが、再び一揆衆に敗れて戦死。代わって村岡山城に入った勝家の養子・勝安によって、漸く一揆も鎮圧されました。勝安は天正8(1580)年になって現在の勝山市中心部の勝山城を築いてそちらに移り、村岡山城は廃城となりました。
お城は御立山と呼ばれる独立丘陵上に立地し、なだらかな山頂の防御を固めるために一工夫がなされています。まずは主郭。折れを伴った土塁と堀にぐるっと囲まれたその構えは、平地の武家館をそのまんま山頂に持ってきたような形になっています。主郭単独でも十分に籠城が可能な作りです。また、東側の緩斜面はびっしりと畝状竪堀で埋め、傾斜の甘さをカバーしています。全般に先進性に富んだ縄張りになっていますので、一向一揆のお城と考えるよりは柴田氏によって修築された「石垣のない織豊系のお城」と考える方が自然な感はありますが、表面観察だけでは推測の域を出るものではありません。





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